奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2013/1/30(公開日:2012/1/19)】

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山田治信氏の新町歴史散歩 11

平成24(2012)年1月

山師・買吹・生野札

石が見つかり山が始まったのは、大同2(802)年平安時代前期と言われていますが確かな記録はありません。細々と徐々に掘っていたのでしょうか? その後700年余の空白を経て、天文11(1542)年[室町後期・戦国時代]城山(御主殿山)を中心とした開発の記録が現れます。

蟹谷尊像
新町毘沙門天の蟹谷尊像  岩に仏像と蟹を抱き込んだ像です。

竹田城主太田垣宗寿(むねとし)は、戦乱で荒廃した銀山の再興に着手しましたが、出石城主山名祐豊(すけとよ)が「銀山は山名の所領だ」と出向いて来て太田垣を押さえて支配しました。しかし祐豊は製錬の煙のにおいを嫌って製錬を他所でやらせたので、地元は採掘だけでは利益が少なく、鉱山業は衰退していきました。10数年後の弘治2(1556)年には、竹田城主太田垣朝延(あさのぶ)が山名を攻め落し銀山の所有統治に入ります。

山名が退いてから約10年後の永禄10(1567)年、堀切レの山で銀が夥しく出て金香瀬鉱床発見、開発の始まりとなります金香瀬大谷筋奥の採掘が始まります(2013/01/30訂正[訂正の理由と参考資料]。元亀元(1570)年には小野所属の山々が発見採掘されます。その山々の場所を明らかにするため、そこに生えていた木をもとに金木、松木、藤木、鞘子(さやご)などと山の名が付けられたと言うことです。

安土桃山時代に入って、天正6(1578)年織田信長が生野に代官を派遣しました。これが奉行所の前身と言われています。天正10(1582)年には、羽柴秀吉も代官を派遣しました。この頃に始めて小野の橋が架かった様です。

慶長5(1600)年江戸時代(前期)に入って、徳川幕府は間宮新左衛門(註1)を奉行として派遣しました。当時、白口に樫木(かしき)、若林、蟹谷などの山(鉱脈)が出て、白口勃興期と言われ白口は880軒を数えました。金香瀬も依然隆盛で、奥銀谷、新町に人家がひしめき賑わいを見せてきたとあります。
【註1:間宮新左衛門は徳川幕府の初代生野奉行で、後に大坂城攻め落しのため外堀の水抜きを考え、奥方面の町役人・下財(坑夫)100人余を引連れ大坂冬の陣に参加しました。】


それから60年後の万治3(1660)年、石があまり出なくなり働く人は他山(矢根、多田銀山)に移り、生野は驚くばかりのさびれ様となりましたが、寛文5(1665)年竹原野道雲山(竹原野奥の谷)が出て盛り、やや持ち直しました。

さて、これから古書に「新町」の名が出てくるところを拾い上げていきます。

寛文8(1668)年
葛籠畑(つづらはた=久宝ダム下)の新町久太夫山に鉉(つる=銀銅鉛を含む脈筋)出て、まれに銀が多く含まれていました。
延宝8(1680)年には、
山神祭礼翌日に、蟹谷(白口)の十郎兵ヱ山で夥しく「つる」出て、御所務山に指定されるよう願い出るとともに、上山十郎兵ヱは喜び勇んで山神の僧に「思う存分な神輿を造るよう」許しを与え、また鳥居の内に蟹の造り物を飾りました。これが新町毘沙門天に伝わる蟹谷尊像のもととなるお話です。
寛永2(1705)年
新町の菊谷(きくや)勘兵衛の若林勘兵ヱ山(白口)が、非常に盛んになって御所務山(註2)となり、若林山が舞台の中央に登場し勘兵衛は銀山一の大山師にのし上がりました。
【註2:御所務山(ごしょむやま)良い鉱石が沢山出て、役人が常時詰め監視監督にあたった山。】
その後約50年
宝暦4(1754)年になって主として金香瀬が隆盛となり、大谷筋の砥石場と言う所で得受(とくじゅ)山、双宜(そうぎ)(註3)が盛況を呈して双宜山は御所務山となりました。
双宜札
双宜札(二朱札):新町野田屋丈助・小野町油屋関助が共同開発した山の名をつけた私札(西森秀喜氏提供)
双宜山は、新町竹田屋忠太郎(安井家の祖)と小野町油屋関助(粂井家の祖)の共同経営で、両家は買吹(かいぶき=製錬業)ですが、山の採掘も手掛けたようで山師とか山師買吹とか書かれているところもあります。山師と買吹を兼業していたのでしょう。
この山の名をとった双宜札(そうぎふだ)と呼ばれる私札(私製紙幣)も出されています。竹田屋忠太郎は私札のところでは、野田屋丈助となっています。(両者とも生野史)
また新町の周安という医師が、石淵の上でうまくノ石(はくいし=銀銅鉱)を掘り当てたという面白い話もありました。(史料拾遺銀山記33輯P11)
その時の山師は、新町の医師 周安だと医師兼山師を認めた書物もあります。
明和元(1764)年
新町川向録青山(りょくしょう山=現緑珠ひ堀跡 駐在所裏)が御所務山となったと記されています。
明和4(1767)年
正月の26日に新町の中川玄仙が若林山の薄身八丁(うすみはっちょう)というノ鉱(はくこう=銀銅鉱)堀場で水脈を掘り当て、それがことのほか大出水で、若林山は採掘を中断しました。後に水抜き策を講じで回復。
【註3:得受山、双宜山は金香瀬大谷筋の谷の奥にあり、現代でいう光栄ひ脈の中間点の西斜面にあたり、両者は余り離れていません。】
明和6(1769)年
「新町の大火」といわれる火事があり広く奥銀谷方面を類焼しました。
同7年には、
新町川向(元教員用市営住宅裏)早谷久林山が大盛りで(良い石が沢山出る)御所務山となりました。
明和8(1771)年
前に双宜山で名前が出てきた新町の買吹(精錬業)忠太郎が岩銀山(いわがね山=小野上三昧)の少し上でノ石(はくいし=銀銅鉱)を掘当て双繋山(そうかやま)と名付けました。
その6年後の安永6(1777)年
新町朝来屋五助が大谷筋登り谷で、石銀(いしがね=鉛に銀を少し含む石)を掘り当てました。

この様に、1,600年代後半から1,700年代にかけて(江戸中期後半)新町と山とのかかわりがある記述が多く見受けられました。



生野銀山のお銭 生野札・但馬南鐐


昔の貨幣制度は、三貨と言って金貨・銀貨・銭貨を使用していましたが、その外に藩札(藩内の独自通貨)、私札(有力商人・両替商・地主などが発行する紙幣)という特定の領域、地域内だけに通用する紙幣がありました。

銭箱
新町の買吹 舩橋屋の銭箱(シルバー生野展示品)

生野銀山でも、後に生野札と呼ばれた私札が種々流通していて、山師や買吹(製錬業者)の間では、雇用する従業者に支払うお金や、日常の小額な取引など、口数の多い金の出し入れによる、煩雑な事務的負担を軽減することと、事業資金の融通のため、私札を発行使用していました。これを行うためには勿論代官の許可が必要ですし、発行者の信用と支払い能力が無いと成り立ちません。

生 野 札
生野札には次のようなものがありました。

大野札
小野町大山師大野友衛門が出した私札
(西森秀喜氏提供)
  大野札
千珠山師大野友右衛門(当時小野在住)発行。
  丹波屋札
太盛山師初代丹波屋太右衛門(口銀屋)の二男丈平が奥銀屋町で買吹をしており丹波屋丈平札を発行。
  播磨屋札
小野町買吹重兵衛(太田家祖)発行。
  舩橋屋札
新町の買吹 舩(ふね・ふな)橋屋発行のもの。舩橋屋は後の峠の森家(酒屋)です。
『舟橋町 --> 森家は旧口銀屋町の有力者の一人であったと思われ、その屋号を舟橋屋といった。現在残っている「私札」などは、同族の吹屋業の名残である。これらから考察して、舟橋町という小区画の町名になったのではないか。しかし何処であったかは判明しない。=生野史代官編 P99  集落の名の起源 1、口銀谷町より』
  双宜札
新町野田屋丈助(安井家の祖)と小野町油屋孫四郎(粂井家の祖)が共同で発行したもの。双宜とは、両氏が金香瀬の谷(現光栄ひにあたる一部)で共同開発した山の名前である。
  上利札
上生野屋利助 小野町斎藤家発行で現在まで発見されていない。

但馬南鐐
但馬南鐐(シルバー生野展示品)

但馬南鐐
以上私製札の外に、「但馬南鐐」(一分銀)という私鋳銀(しちゅうぎん=私製の鋳造銀貨)が山師の中で鋳造され、慶安年間(1648〜51年)から亨保年間(1716〜25年)に山で通用し、賃金の支払いや周辺に流通しましたが、後に代官所の命令で通用停止になりました。

但馬南鐐の「南鐐」とは銀の含有率の高い事を現わしていると言われ、純度は99.5%とほぼ純銀にちかく、鋳造の形も大字・中字・小字・枠付・細字枠付など何種類かあり、重量も形により違うようで、現在も30万〜80万円程度で、古銭売買の市場にあるようです。


鉱石の昔の呼び名と含有物(旧時代の鉱山用語より)
ノ石(はくいし)=銀銅鉱石(親石)
皆石(みないし)=銀鉱
石銀(いしがね)=鉛+銀少々
合石(あいいし)=銀・銅・鉛  吹立のとき調合したもの(製錬するために調合したもの)



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な印刷物の種になるお話や、資料・写真がありましたら教えて下さい。
 なお間違いがありましたらご指摘下さい。

(写真・文 山田治信)


  • 生野史 鉱業編 生野札 P549、山師の私鋳銀 P556
  • 生野史 代官編 集落の名の起源 P99
  • 史料拾遺銀山記 生野史談会編纂
  • 山の位置の特定 得受山、双宜山の位置は、山田定信・椿野兵馬両氏の調査、編纂の「間歩の字附表」「生野銀山間歩位置図」によりました。

✽「ひ」=ひ





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このページは、ワード文書としてA4用紙5ページにまとめられた「新町歴史散歩No.11」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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