奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/7/20】

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山田治信氏の新町歴史散歩 17

平成24(2012)年7月

乗合バス・馬車が走っていた上町


『発生の年代が新しいので新町と名付けられた。慶長5(1587)年安土・桃山時代頃より人家が出来て次第に繁盛、その後、京・大坂より商人が集まり、狭い谷に寸分の土地を争って商人が軒を連ねて居住していた。東部を新町、西部を坂町と称する二筋の町があり、下手に銀山三大山師の一人菊屋勘兵衛の屋敷があった。』と古い書物に紹介されています。山と山師に労働力を供給する部屋主や部屋主が賄う飯場(作業員の合宿所)、買吹(製錬業者)や吹屋(製錬作業場)も増えて行ったものと思われます。

引札-吉田商店
引札  新町 吉田商店のもの(提供:澤田弥生氏)

引札-別所商店
引札  新町 別所商店のもの(提供:澤田弥生氏)
これら引札は新町文化展に展示されました。

古いお話は「生野史」に、新しいことは記憶やら「明治以降の生野鉱山史」の助けを借りて続けるとして、時代的にもその中間を語る資料を見つけ出していません。その代わり、澤田弥生さんに提供してもらった引札(ひきふだ)に語ってもらいます。

引札とは、江戸前期寛文の頃(1661〜1672年)より始まり明治時代にも引継がれた印刷物で、商店の宣伝、開店、大売出し等に使うチラシや折込広告、ビラに当たるもので、その中から新町の商店のものを抜き出してみました。そのほか新町にあった、昔の屋号を今探りだせるのは、京屋、板屋、紺屋坂町、菊屋などだということです(成田守氏談)。また私札で残っている野田屋です。

大正年代に入って、大正2(1913)年に家屋に電灯がつきました。しかし新町でそれより11年早く電灯が点いた地帯がありました。それはトロッコ道で明治35(1902)年に点灯しています。(このことについては、後に挿入文がありますのでご参照下さい。)

また大正年代に口銀谷に先立ち、私立幼稚園が篤志家のご婦人たちの手で設立運営されていたとのことで、民家の表半分を改造したもので、現八鹿電機新町工場の旧仙遊寺参道側にあったようです。

町営の幼稚園が初めて小学校に併設されたのが昭和6(1931)年ですから、かなり早い時期に私立幼稚園が出来ていたのです。しかし私立ですから該当年齢者がすべて入園出来たわけではありません。

この大正時代の幼稚園周辺は、後年にも旧学校にあった小学校、唯念寺から(廃)仙遊寺へと歩んだ保育所、昔の一時期、託児所をひらいた(廃)西寶寺、その跡地に出来た幼稚園・幼児教育センターなど、この山すそのベルト地帯は幼児の教育に不思議な縁があったようです。

さて、もっと近年はどうであったのでしょうか。

トロッコ道と亀石
ここは細い電車道でした。亀石も大きく突き出しています。(写真:生野書院蔵/橋爪一夫氏提供)
現在の道

上町と下町(地名では下筋)の二つの通りがあり、下筋は新町橋の所までしかありませんでした。新町橋から下流は、石垣にへばり付いた様な細いトロッコ道だけでした。

細長い新町の街並みの一部では、上町と下町の間に中町とか横町とか言う通りがあり、今もその跡を窺う事が出来ます。

上町が主要な通りで、鉱山があったからか、他町にない乗合自動車(バス)が大正7(1918)年より運行を開始しており、昭和17、18(1943)年頃まで続いたようです。ハイヤーも営業していました。乗合自動車は停留所以外でも軒先に赤い小旗を下げておくと停車して乗せてもらえ、生野駅と小野を結んでいました。子供の頃は、口銀谷と奥方面は大変遠く離れている感じでした。戦中戦後の一時は、ガソリンの不足で薪を焚くタクシーも現れ、戦後、車が消えたある時期には、乗合馬車を走らせた人もありました。

馬車

さて、この新町の街並みを戦時中、故国を離れて異郷にあった二組の人たちが通り過ぎて行ったことも書いておきたいと思います。食料もなく商店には売る物もない時代、坑内作業で疲れ切った韓国・朝鮮の人たちが、鉱山からの帰り道、何か商店に食べるものは無いかと探していました。一方、連合軍の捕虜は迷彩服で隊列を組み、主に下町を通り金香瀬に行き帰りしていました。

敗戦が来ました。韓国・朝鮮の人たちは、寮にいた単身者や社宅にいた家族持ちを含め、強制労働からの解放を喜び大勢で歌を歌いながら、夜 町をデモ行進しました。日本人は、雨戸を閉めて息をひそめていましたが、行進は喜びいっぱいに通り過ぎていきました。

連合軍の人たちの収容所(猪野々)には、飛行機から落下傘で物資が投下されたので、食糧その他物資が豊富でしたが生野菜が無く、旧朝来町方面にチョコレートなどを持って買出しに行っていたようです。また階級の高い軍人はジープで一般の兵は徒歩で、町に遊びに出てくるようになりました。日本人は連合軍の人たちに接触することによって、何らかの物資が手に入ることも期待していました。

韓国・朝鮮の人たちは、全国のあちこちに集合場所が決められ、そこから母国に帰って行きました。生野あたりの人たちの集合場所は、飾磨港(現姫路港)でした。

また戦後、新町の通りを楽しく通り抜けたのは、小野・奥銀谷の人たちを主体とした昔踊りの集団でした、新町からもポツリポツリと踊りの列に加わりました。

旧郵便局
現在地の旧局舎(写真提供:岩宮佳朗氏)
赤いポストが懐かしい。

前にもどって、新町に幼稚園があったと言う事も驚きでしたが、戦後、普通の民家ではない造りのその建物は、昔何だったのかと思っていると、その建物の半分が郵便局に、半分が米屋に変わりました。昭和21(1946)年、新町郵便局の開局です。そして郵便局は、昭和36(1961)年現在位置に移転、63(1988)年12月現在地に新築されました。

話が変わりますが、戦後かなりたって道路を舗装するために堀起こした時、下町筋では、昔の電車道の枕木が出てきました。また舗装した路面がすぐにデコボコになるのは、捨石による埋立地だからだという年寄りの話もありました。

昭和41(1966)年に上町が、一方通行になっていますので、戦後少し経た、20年代後半から30年代に下町筋の拡張、新町橋以西の道路の新設が行われたことになります。木造で橋の上は土盛りした新町橋が、永久橋に架けかえられたのは、昭和36(1961)年でした。

顕彰碑
能見房太郎氏の名前も刻まれている顕彰碑(元役場前庭)

前に記した大正時代の幼稚園、戦後最初の郵便局となった建物は、子供の頃は恐らく昔、区のクラブ(今の公民館)の朽ちた姿だと思っていました。ところが新町にはクラブ(公民館)は無かったのだそうです。区の中心部にある本来寺を借りて組長会や各種会議をやっていたのだそうです。(その頃、組長のことを「什長=じっちょうさん」と呼んでいたように記憶していますが。什長の字は辞書には〔じゆうちょう〕となっています。)

戦後、小さな民家を買い上げ、クラブに使っていましたが、区民総会など行えば入りきれない状態でした。その後、その土地をもとに、その土地の横にあった道路や溝を付け替え、その土地の一部を取り込んで現在の公民館が建設されました。昭和52(1977)年のことでした。


最後になりましたが、新町から輩出した人物を列挙したいのですが、調査が出来ていませんので、解っているものだけを紹介しておきます。
 新町出身の町長
 第5代 能見房太郎
   大正8年3月17日〜昭和5年9月15日 在任11年間
 第6代 安井  至
   昭和5年9月22日〜 〃 13年7月4日  〃 8年間

安井至傳
安井至傳(350部限定) 昭和14年7月発行

上記二者は、大正元(1912)年以降何度か繰り返されていた労使紛争の中で、最も大きな争議であった大正14(1925)年の争議に、生野労働組合並びに争議団と会社との間に調停に入り、4月26日以来続いていた罷業(ストライキ)は翌5月7日夜に終結を見ました。当時能見氏は町長、安井氏は県会議員でした。(鉱山史P291)

また庶民的なことでは、鉱山の「石刀節=せっとうぶし」の伝承者として、昔新町に鈴木安二氏という方が居られました。石切節と鈴木さんのことが、写真集生野銀山(P170)、生野銀山町物語(P33)に載っています。鈴木さんは、新町毘沙門天を現在地に遷座する前後の頃に、新町の区長をされたこともあり、「明治以降の鉱山史」の著者である藤原寅勝氏と共に金香瀬採鉱課の「生き字引」と言われた人です。

けい肺法の解説書
能見氏の一文も載っている当時のけい肺法の解説書。

また生野が鉱山町であった故に書き残したい人がいます。「昔陸軍 今総評」と言われた総評(日本労働組合総評議会)華やかな時代、全鉱(全日本金属鉱山労働組合連合会)の、けい肺対策部長として「じん肺法(けい肺法)」の制定に携わり、法制定後は生野に帰省して鉱山労組の役員を務め、定年後老齢で子供の所へ行かれるまで新町に在住された能見修氏です。

じん肺法は、症状の診断と確定、療養と補償など職業病に対する画期的な方向を示して、症状は治せないまでも、不治の症状に苦しむ人たち及び家族への大きな支援援助となりました。


次に、近年急速に発展し、閉山と共に消えていった官舎・社宅のことはまた別項で綴るといたします。



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。        (文責:山田治信)


  • 平凡社編  日本歴史地名大系  兵庫県の地名の生野町部分より
  • 生野町制100周年記念史(年表)
  • 明治以降の生野鉱山史   藤原寅勝著



新町には早くから電灯が点いた所があった

当町は生野鉱山の鉱業用自家発電による電灯が、明治34(1901)年より点けられ、鉱山社宅には皆点灯されるとともに、街路灯も口銀谷1丁目から本町をへて鉱山まで、及び新町2丁目に至る鉱山軽便軌道敷設道路(トロッコ道)も夜間通行が危険なため、明治35(1902)年10月より向こう30年契約で点灯してもらっていたが、一般民家に及ぼす訳にはいかなかった。

姫路さえも電灯が無い時代から、山神祭にはイルミネーションが輝き、夜の電飾を見るだけでもお祭りに参る値打ちがあると、近郷近在から大勢の人出を見たものである。


生野町制65周年記念誌(佐藤文夫氏提供)より抜粋
昭和29(1954)年 生野町役場発行 福田孝氏編纂




(こぼれ話 上町を走っていた乗合自動車)


生野駅構内乗合自動車発着時間及び賃金里程御届
(提供:大西美也子氏)

発着時間及び賃金里程御届

大正7(1918)年から生野を走っていた乗合自動車(バス)は、名称を「朝来自動車株式会社」と云い、生野町の有志が出資し設立されました。設立当時の会社の役員は次の通りでした。

( 朝来自動車株式会社設立時の陣容 )

社   長  安井  至
常務取締役  日下筆吉
取 締 役  田村頼太郎  藤原まちじ  松本喜作  能見兵助
監 査 役  白瀧鉄太郎 柴橋与之助
平 株 主  浅田貞次郎 白瀧重右衛門 山田新七


筆吉氏は常務と云うことで日常の運営を担当されていました。前表にある通り、生野駅前より小野間の里程(りてい=距離)1里2丁となっており、料金は50銭となっています。途中停留所として田村銀行、鉱山前、南光院前(新町)、大橋前がありました。この停留所の場所全部がお解りの方は、かなり御年輩だと思います。以上、大西美也子さんが、おじい様の日記帳などから貴重な内容を調べて下さいました。

乗合自動車
日下旅館前に停まっている乗合自動車
(写真:生野タクシー提供)

生野タクシー様からも貴重な写真の提供をうけました。写真は、日下旅館前の駅前停留所に停まっている乗合自動車、行先が寺前となっています。後にはそんな路線もあったのでしょうか、写真の後ろにはハイヤーの姿も見えます。

また自動車の後ろの車輪に、何か横向きに長い箒の先の様な物が下がっていますが、これは泥を跳ね飛ばすのを防ぐためでしょうか。当時道路は舗装ではなかったので、土の道路にはあちこちに穴ぼこが出来て、雨が降ると水たまりが出来ました、その泥水を跳ね飛ばさないための装備でしょうか。一方この穴ぼこを直すために川原より砂利を運び上げ、町内の所どころにその砂利をストックする所があり、そこから砂利を荷車に積み込み、あちこちの穴ぼこを直しに廻っておられる人たちも居られました。

その頃道を通っていたものとしては、馬力・牛車などがありました。木材などが積めるかなり大きな荷台の前後に車が付いており、それを馬や牛が引くものです。この車の車輪は、はじめ木の車輪に帯鉄の輪を嵌めたものでした、近代に近づくにつれゴムの車輪に替わりました。荷物を積んだ荷台の最後尾に飛び乗っていて御者のおじさんによく怒鳴られたものです。

(文 編者)


馬力

[ 馬  力 ]
ゴムタイヤになる前の最初の頃の馬力(ばりき)という運搬車。馬も戦争に駆り出されて不足となり、やがて牛が引くようになり牛車(ぎゅうしゃ)と呼んだ。
  写真:生野銀山町物語P213
     中央公民館 但馬開発推進協
     議会 生野同友会
     昭和29(1896)年発行




西暦年号間違いに付いてのお詫び
6月に発刊しました歴史散歩No.16 「新町毘沙門天」で、和暦を西暦に置換える所で、間違いがありましたのでお詫びして訂正いたします。
 訂正箇所
  5頁上から22行目(「記述の問題点第二」の項)
  (誤)天和2年(1982)年  (正)天和2(1682)年

以  上
✽Webページ上の当該箇所は修正済みです。





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このページは、ワード文書としてA4用紙8ページにまとめられた「新町歴史散歩No.17」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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