奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/5/19】

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山田治信氏の新町歴史散歩 No.15

平成24(2012)年5月

唯念寺


唯念寺

唯念寺は現在真宗西本願寺派ですが元天台宗であったという寺歴もあるようです。寺院明細帳・社寺縁起・同寺縁起に色々と書かれているようですが、省略して要約すると、元信州の武士の後胤柴田左衛門尉が応仁の乱(応仁元年=1476年戦国時代の始まり)で討死にした父を弔うため僧籍に入り、あちこちで修業の後、文明年間(1469〜1486年)の頃、銀山に来て扇山南峰の廃坊を取立て中興開山しました。その廃坊が天台宗だったので元天台のお寺と言われたのでしょう。

その後、文禄の頃(1592〜1595年)奥銀屋町城山の麓に引き移ったとあり、その年代に新町・奥銀屋が発生し始めたことを思うとうなずけると書いてあります。第17世住職の巧海和尚は、470年間この血脈を受け継いできたと書かれています。

その後の推移を説明できる資料がありませんので、戦後私たちが知っていることから引出します。


保育所の玄関で園児たちと
保育所の玄関で園児たちと  新町文化展展示写真

昭和23(1948)年巧海和尚が本堂を改装、口銀谷に先立ち生野第一保育所が開設され昭和39(1964)年仙遊寺跡に移るまでの約16年間、幼児保育が行われていました。またクラブ(公民館)が無かった新町の青年会は、保育所をいろいろと利用させていただきました。ここを拠点に会議や、青年会機関紙「山脈」を発行したり、戦後各所ではやった社交ダンス講習会や素人演芸会を開催しました。素人演芸会には口銀谷からも観客があるなど思い出の深い場所でした。現在の本堂・庫裏は近年新築されました。



扇山南峰に眠る昔と夢
        山と谷に繋がる銀の路

このお寺で一番興味深いのは、ここに移る前に扇山南峰にあったという事です。17世巧海和尚は『縁起中にある唯念寺の元となる寺、天台宗大破寺があったという「寺所」は当寺より真向かい(やや東)の扇山という山の上にあり、今なお、そこには往時寺のあった境内の石垣が残っており、ここには白口町に通じる路があり、白口からも上下したものらしい。』と書き残しておられます。〔昭和15(1940)年1月の書〕

先代住職(一明師)も幼い頃、山に登ってみたと言っておられました。登る途中に「太盛山=たせいやま」と彫られた岩があった様で、当時『その岩が向いている方角が太盛山だろうと思った』と言うことでした。現在、古絵図でそのあたりを見ると、大盛山(おおさかり山)という山(間歩)があったようで、岩に刻まれていたのも「大盛(おおさかり)山」だったのだと思います。「大盛山」の位置が岩壁に刻まれていたことは、今回始めて知りましたが、60年以上前のこと、岩も風化し草木に埋まって消えていったことと思います。非常に残念です。


ここからは、夢と創造の世界となります。新町の対岸から扇山に登ると扇山、金香瀬山塊があり、その山塊の中に金香瀬大谷筋を中心とした谷々が走っています。この山を越え谷を登って繋がる地帯こそ、生野銀山金香瀬鉱脈群の繁栄を支えた地帯です。この地帯に、金香瀬、青草、白口の三地帯があり銀のトライアングルを形成していました。

生野銀山間歩位置図
新町・奥銀谷地区の鉱脈(太盛鉱脈群の一部)と金香瀬・白口・青草地区の鉱脈
図面=「 生野銀山間歩位置図 」山田定信・椿野兵馬氏調査編纂より
現状の若林坑口
現状の若林坑口(白口)。金香瀬坑内に通じていて閉山まで確保されていた

この山なみの山腹には、蟻の巣のように山または間歩(まぶ=坑口)が点在し、掘りだした石を砕き選別する作業小屋や資材小屋などがあり、四つ留め支柱を施した御所務山には、昼夜役人が監視・監督に当たる詰所や宿泊施設などもあったものと予想されます。掘りだした捨て石の上には、山の仕事に携わる男や女の寝泊まりする筵小屋や飯場、山の男たちを相手にする娼婦の筵小屋もあったことでしょう。

その様な小集落が谷ごとに散在し、幾重にも連なる山なみや谷筋、そこに広範な生活圏を造っていたものと考えられます。そしてそれらを繋ぐ道が縦横に走っており、人が蟻のように群がり石を掘り、資材や鉱石が運ばれ、まさに古の生活・生産活動並びに交通路の要衝であったと考えられます。

現状の若林坑口
上記 若林坑内部
支柱もしっかりレールも残っている

青草の石は白口に運び出したと言われており、白口の谷の奥、萩谷からは、青草、金香瀬に通じる路があり、また白口部落の中間には、かって千珠(せんじゅ)ひの坑道が口を開いており、白口より千珠ひを伝って金香瀬に至る路は、千珠道(せんじゅみち)と言われていました。〔史談会 平成13(2001)年3月発行 一里塚9号 白口千軒 佐藤文夫著に図面が掲載されています。〕

また、戦前・戦中には、白口・作畑から山の路を通ったり、坑内を通って金香瀬に通勤したという昔人の話もあります。

山の上にあった古の寺は、この銀のトライアングルの拡がりを一望に、足元には小野河原町の砕石場、扇山の久林・緑珠の富鉱帯を踏まえて将に山の上に広がる古の人々の夢と安穏を念じるお寺であったということでしょうか。

ここで夢の作文を閉じます。
それというのも「金香瀬大谷筋の奥は急峻で、作業小屋や倉庫、住まいの筵小屋など建てる余地が無く、谷筋に人が点在して住んでいるとは考えられない」という横槍が入りました。「さもありなん」と思いながらも、私の頭の中にはこんな疑問が渦巻いています。

久林坑跡
千珠(せんじゅ)ひを伝って金香瀬に至る千珠道の入り口(白口)
少し登ると坑口も

相沢・小野は別としても奥銀谷・新町・坂から、大谷筋のずっと奥の間歩や山に通えるのだろうか。町の中には地役人・山師・買吹・部屋主の邸宅があり、種々の吹屋が立ち並び、街周辺の山や間歩に働く人を収容し、商人が一寸の土地を争って店を開いていたと言うのに、大谷筋奥の山で働く人たちを受入れる住まいや飯場などを建てる余地があったのだろうか。やはり白口方面から山に入ったのだろうか。白口には千珠道(せんじゅみち)と呼ばれる、千珠ひに沿った路もあるのだから。

残った疑問と共に、金香瀬の奥の谷筋に人が点在して住んだという、夢の作文もこのまま残すことにしました。

(文  山田治信)



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。

  • 生野史 4  神社仏閣編
  • 安国山唯念寺縁起 昭和15年1月 第17世住職 柴田巧海識
  • 生野史談会 一里塚9号 白口千軒 佐藤文夫著



(こぼれ話 青年会・青年団・日青協)


私たちの時代、公民館がなかった新町の青年会は、唯念寺(保育所)を借りて種々活動をしていたことを記しました。それに関連して、少し青年会、青年団について触れてみたいと思います。当時、青年の集団は区にあるものを青年会、生野町全体の会を生野町青年団と呼んでいました。町の青年団も活発に動いており、討論会、弁論大会、模擬国会など開催し、特に模擬国会は生野町の青年団員を保守党、中正党、革新党の三つにわけそれぞれ党首・幹事長を選出し、学校の講堂を会場として国会を開き討論を戦わせました。


生野町青年団模擬国会
生野町青年団模擬国会(旧女学校講堂)
壇上は各大臣・国会議長

政府側は町長が総理大臣で、助役や町議会議長・議員、郵便局長、各種団体の役員などが大臣となり、各党の代表質問(青年団側)に答弁をしました。質問者は、摸擬国会開催のかなり以前より質問事項を提出、政府側の大臣・委員は開催前にその質問の答弁を準備しました。両者ともそのためにかなりの勉強と準備が必要で、日常出会っても、「この質問の趣旨は」「答弁はこれで良いか」など一か月近くは摸擬国会でもちきりで生野町内挙げての大変な行事でした。

その頃の青年団の全国組織を、日本青年団協議会(略称 日青協)といって大変な勢いで活発に動いていましたが、後に政治的、思想的活動が活発となり、各市町村が青年団として育成しようとした方向と隔離が生じ、市町村側は青年団を日青協から脱退させていき、日生協も一般から支持を失っていきました。

市町村の青年団もだんだん消えて、その後は、政治団体・政党・労働組合・学生団体・宗教団体・思想団体などの中で思想、主義の違いから多くの分派が起こり、それぞれが激しい活動と相克の時代を迎えます。

自治体も、人集めや活動の担い手となる青年団が無くなり、次に婦人会に依存しましたが婦人会もやがて力を失い、その後は老人会、ボランテェアの時代へと移行していきます。

( 文   編 者 )


(註)新町青年会は、大正3年6月15日に最初の発会式を行ったことが、「安井至傳」に記されています。





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このページは、ワード文書としてA4用紙5ページにまとめられた「新町歴史散歩No.15」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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