奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/3/28】

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山田治信氏の新町歴史散歩 ●

平成24(2012)年3月

新町の中ほどにトロッコ橋

川向のトロッコ路
川向のトロッコ路

新町下町の対岸に電車道の跡が残っていますが、昔は新町の中ほどで橋を渡り町の中を通っていました。 このトロッコ道は、金香瀬の銅鉱開発が明治5(1872)年頃より再開されることが決まり、それに先だつ明治4(1871)年、 金香瀬〜本部間の物資の輸送と、鉱石の搬出のための輸送路として工事が始められました。

この輸送路は、小野相沢町西端の河原町稲荷社付近より、市川左岸沿いの山裾に路床を築造し、新町対岸に新たに久篤(きゅうとく)橋を架け、久篤橋と本部間は新町の下筋を利用しました。新町橋から下流は、現在立派な道路となっていますが、昔道路は新町橋までで、それから下流は巾の狭いトロッコ道で、現在ほとんど道路の下になっている亀石も大きく川に突き出ていました。

朝倉盛明(註)がこの険阻(けんそ=けわしい)な市川左岸に敢えて輸送路を選んだのは、大橋を経由して町内を通るより距離の短いことのほかに、小野河原町稲荷の南に接した一帯が均質な凝灰岩で、古くから採石場で屑石が多量にあり、その利用とあわせ石垣用材が容易に調達できることが理由だったようです。

  • [註:朝倉盛明=官営鉱山最初の支庁長(鉱山長)、六区から真弓に渡る橋にはこの人の名前が付けられています。]

この石材は、民家の礎石や墓石等に多く使用されたほか、工場建築物の礎石、窓枠等に大量に使われ、また正門の門柱(現在のシルバーの門柱)金香瀬坑口の石組、下箒の修道碑等にも使われていると書かれています。

トロッコ橋が架っていた所
トロッコ橋が架っていた所

川底に残っている橋脚の跡
川底に残っている橋脚の跡

久篤(きゅうとく)橋は別称トロッコ橋とも言われ、もちろん全木造で路面は鉄道の枕木の様な角材が並べられていました。現在の市営住宅2、3号棟の中間、消防水利と標識がある所から対岸に架り、対岸には橋を挟んで上流に久林ひ(金+通)、下流に篤行(とくこう)(緑珠ひの旧称)があり両鉱脈の頭文字を取って久篤橋と名付けられ、トロッコ輸送の外、両脈を稼行するための通路でもありました。

大正2(1913)年6月21日、香瀬坑内の光栄竪坑付近で火災が発生して操業が中止状態となりました。この休業期間中に従業員を動員して、新町久篤橋から猪野々間の市川左岸に輸送路を延長し、あわせて白口川と市川に専用の橋を架設して、本部までの新しい運搬路を造りました。この火災は、坑道閉塞による消火と、その後の排煙(一酸化炭素)作業で、再開まで40日余を要したということです。

この様に、輸送路が延長されて橋や下町筋の輸送路は不要となり、その役目を終わり終わり、鉱山町の風物の一つが姿を変えることになりました。

トロッコ橋はその後レールなど取り外し木の橋として残っていて、夏は銀谷寮(ぎんこくりょう)の寮生や、近所の住民の夕涼みの場となっていましたが、危険になり取り壊されました。現在も川の中に橋脚の跡が残っています。

古い写真に写っている久篤橋
古い写真に写っている久篤橋(中央)-小野方面より奥銀谷・新町を撮った写真
この写真撮影時には電車道が既に猪野々まで延びている時代のもの。

さて、下町の中を通っていたトロッコ路は廃止され、現在 川の対岸に見える路を輸送路にしたのですが、金香瀬選鉱場と本部間の鉱石輸送は人力によっていました。それが大正8(1919)年8月から電化され、外国の電気機関車が0.8トン積みの木製鉱車を10台余り引っ張ったようです。

新町橋から下流
新町橋から下流は電車道でその頃の名残りの小道
左側に亀石も大きく突き出しています。(写真:生野書院蔵/橋爪一夫氏提供)


✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。 ( 写真・文 山田治信 )


  • 明治以降の生野鉱山史  藤原寅勝著 生野町教育委員会発行
      御料局時代「金香瀬、本部間輸送路の新設」P221
      三菱時代「金香瀬、本部間鉱石輸送の電化」P28 光栄竪坑の火災 P260
      水路構築(P81)、馬淵貯水池及び水路(P196)、カドミ汚染公害問題(P409)



(電 車 道 こぼれ話 )


暴走トロッコ
電車道は金香瀬まで行くと、坑口や金香瀬坑外の諸施設よりずっと低いレベルに到着しますので、荷物はそこから台車ごと斜面に乗せて運び上げました。

  • (斜面=インクライン、ケ―ブルカ―の様にレ―ルの上をワイヤーロ―プでけん引上下するもの。)

或る日、積替え作業をしていると、歯止めを忘れたのか外れたのか、木製台車が傾斜のある下の方へ逆走し、小野の方へ走りだしました。追いかけても重量のある何台かの台車は、どんどんスピードをあげて走り出しました。作業をしていた人たちは真っ青になりました、荷物が大量の火薬(ダイナマイト)だったからです。

走り出した台車は、請願(せいがん 註)と河原町稲荷の橋の所で、直角に近く方向を変えるカ―ブとなっていましたので、積荷のダイナマイトの箱は橋の上から大谷川へ転落しました。一瞬にして小野の部落と対岸の奥銀谷が、吹っ飛んだと思いましたが爆発しませんでした。作業していた人たちは、ひそかに急ぎ川からダイナマイトの箱を運び上げ、無事火薬庫に収納した後、火薬取扱主任者である上司に報告しました。

報告を聞いた上司は仰天し、冬であればダイナマイトが低温で凍てぎみなので爆発しただろうと驚愕(きょうがく)の様子でした。

昭和20年代後半の出来ごとです。


(註)

  • 請願(せいがん)=請願巡査駐在所のこと。
    現在の小野河原町稲荷に渡る橋の手前、右側の土地または建物がある所。
  • 請願巡査=町や村、会社あるいは個人が費用を納めて巡査を配置する制度、昭和13年(1938年)廃止。(以上広辞苑)
  • 小野の請願=昭和13年制度が廃止されたということですが、「請願=せいがん」という場所の名前は後年でも日常使われていました。昭和20年代には駐在所ではなく、巡査の住宅として使用されていましたが、その後、個人に売却後、建物が取り壊され新しく家屋が建築されました。

    請願巡査の制度がある時代、それがどの様な役割を果たしたのか知りませんが、金香瀬採鉱課のある谷の玄関口に門番のように構えられていたことは、昔御所務山の詰所に役人が詰めていたことを連想させます。

    かっての時代は、大衆を治め靡かせることは治安の問題と考えられていましたから、全国各地または国外からも沢山の人が集まっており、その治安を維持するためと、日々各人が火薬類を使用するため、その持ち出し散逸を防止すること及び大量の火薬類を貯蔵した火薬庫があったためと考えられます。

(この「註」の項の文責は編者にあります。)


元金香瀬選鉱場
元金香瀬選鉱場の写真
上が金香瀬坑口のレベル、下が電車道レベル、その間をつなぐ左端が斜面(インクライン)です。
操業当時の通勤道路は、写真(右下)下部軌道敷の手前に川があり更にその手前にありました。この高低差を折れ曲がった階段の道で登りました。「けい肺泣かせの階段」と言いました。
資材輸送用の自動車道が通じたのは、ぐっと近年で、閉山までに自動車通勤の時代は来ませんでした、せいぜい少数のオートバイ通勤があった程度です。
この写真の場所は、現在の生野銀山(シルバ−生野)に登る道路の下にあたります。
旧豊岡中学校の生徒が学徒動員で働いた地
上記写真に写っていない左端には、廃石の堆積場があり、戦時中、昔の捨石にはまだ金属分が残っているということで、捨石を1トン鉱車に積み込み、トロリー電車で選鉱に送っていました。この作業を、学徒動員で来た旧豊岡中学校の生徒がやっていました。戦時中の一幕です。
(写真:生野書院蔵/提供:橋爪一夫氏)

トロッコ電車・久篤橋・銀谷寮
久篤橋を渡った所に、鉱山の鉱員の独身寮の一つ「銀谷(ぎんこく)寮」がありました。鉱石輸送の役割を終えた電車道は、資材輸送用電車となり、本部から金香瀬に毎日午前中に資材(主に坑木)を運んでいました。その電車は、購買会から銀谷寮に運ぶ品物の便乗をよく頼まれました。頼まれた品物は、久篤橋で下ろすと橋を渡るとすぐ前が銀谷寮でした。

この運搬をやっていたのは、材料運搬と言う職種で、この運搬が自動車輸送に切り替えられた以降は、金香瀬坑外より資材・坑木等を坑内各区の材料置場(本坑レベル)まで電車で運搬する作業に変わり、坑内従業員が電車で入退坑する様になると、その電車の運転もやっていました。これは戦後のお話ですが、自動車輸送が世間で一般化する前後の時代を想像してください。
(編者 文)

採 石 場 追 録
本文1頁にある採石場については、古い絵図にも載っていましたので参考のため追加収録しました。(ゴシック体の場所の表示は後から付け加えものです。)

絵図-1
絵図(生野書院蔵/提供:市教育委員会社会教育課)
吹屋(精錬屋)があちこちに描かれていることにも注目下さい。
屋根の上に屋根がついているのが吹屋です。

トロッコ道追録
川向のトロッコ道、新町下町を通っていたトロッコ道などお話をしてきましたが、別の絵図でまた別のトロッコ道が現れました。これには本来寺裏に二つの間歩(坑道)があり、その二つよりトロッコ道が出ており、下町の川まで繋がっているのですが、川向やトロッコ橋、下町のトロッコ道は書かれていません。どう考えたらいいのでしょうか。ただ本来寺裏の間歩、トロッコを押している人などが描かれており、興味深いものがあります。

絵図-2
明治9年頃の生野町絵図の一部分(市指定文化財/生野書院蔵)

下は上図に描かれている部分の拡大

絵図-3 絵図-4
本来寺裏の間歩とトロッコ道 トロッコを押している人




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このページは、ワード文書としてA4用紙7ページにまとめられた「新町歴史散歩No.13」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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