山田治信氏の新町歴史散歩 9
平成23(2011)年11月
もう一つの路 その名は「て津道(てつどう)」
下箒の道路にそそがれた人々の苦労の歴史は、太田虎一氏の著作を借りて前の項でお知らせいたしました。しかし、この地点には、まだまだ色々の内容があります。
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下流側の亀石(写真:西森秀喜氏) |
道の難所下箒(したぼうき)を守って来たものに亀石と石仏たちがあります。亀石は上流側と下流側の2か所にありますが、上流のものは道路が造られたため殆どがその下に隠れ、わずかに先端が見えている程度ですが、近代工法以前の時代に、石積みを川底の岩盤に固定させ、これだけの構築物を築くのには、古の優れた工法が使用されているとのことで、現代の技術者も感心しているようです。
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役の行者(写真:西森秀喜氏) |
亀石と違い精神的に道を守ったのが石仏たちです。
行者岩と言われる飛出した岩塊の一角に、地蔵尊、不動明王、役の行者(えんのぎょうじゃ)、道祖神(どうそしん)が祀られています。ここから川を遡っていくと、石淵(竹原)、馬淵(生野ダムの昔の地点)という道の難所があり、同じように石仏が祀られておりそれらを紹介した先輩たちの文もあります。
地蔵尊は菩薩の一尊(そん)で、道祖神と一緒に路傍に多く祀られており説明の必要もありません。不動明王は、大日如来が憤怒の姿で現れたものと言われ、激しく燃えさかる炎を背後に、眼光鋭く右手に「降魔(こうま)の剣」左手に「羂策(けんじゃく・ムチ)」を持ち、あらゆる障害を打ち砕き悪魔を降伏させ、仏道に従わせ救済すると言われています。昔は岩にボールトを打ち込んで作った棚に、もっと立派な不動明王像がありましたが、近代に行われた岩の削り取り工事の後、棚も無くなり石像も壊したのか、現在は機械彫りのお粗末な石像が別の位置に据えられており、元の岩壁に剣の彫物のみが残っています。
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剣の彫物と不動明王(写真:西森秀喜氏) |
役(えん)の行者は、日本古来の山を神として敬う山岳信仰と、神道・仏教・道教・陰陽道を混合した宗教、修剣道の開祖で、この道の実践者を山伏と言います。道祖神は悪霊の侵入を防ぎ、通行人を災害から守るため村境・峠・辻に祀られる神で、賽の神(さいのかみ=遮る)、道の神とも言います。
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単体二体と男根道祖神(左端)(写真:西森秀喜氏) |
道祖神の像は、多種多様なものがあるようですが、ここの像は、単体二神道祖神といわれるもので、一体は、道 上(上流を指す)丹波 黒川、前(猪野々方向)作畑 多可郡と字が刻まれており、一体には 東と刻まれて前面が東であることを指し示しています。その二体の傍に、坊主頭の円柱の石があります。何だろう単なる石かと思っていましたが、その正体は男根型道祖神のようです。何回かの道路拡幅の度にあたりの像を移動させたため、この石は深く埋まり過ぎて、全容が解り難くなっていたのでしょう。
女性の方は、優しく柔らかく撫でていただければ、心が癒され若さが甦ってくると思います。
これら石仏たちは、近隣の皆さまが清掃、お祭りをされています。
昔、下箒(したぼうき)の路はしっかりした道が無く危険で、上箒(うえぼうき)という山の上を通る廻り路があったことは知られていますが、明治初期の絵図に、もう一つ路があったことが書かれています。その絵図には「て津道」(鉄道)と書かれています。日本に最初の鉄道が新橋〜横浜間に出来たのが明治5(1872)年ですから明治4年以前のものと推定される絵図に、「て津道」と書かれていることは驚きであると佐藤文夫氏が語っておられます。(平成13年3月史談会一里塚11号)
この道は、善谷寺の谷の奥から旧選鉱場あたりまで鉱石を運び出した道です。善谷寺の谷の奥には、扇山から延びた鉱脈、天受(てんじゅ)ひが太盛本ひ、太盛奥ひの2脈にぶつかった盛徳地区という富鉱帯があり、そこからの鉱石を運び出したのです。トロッコの様な箱車を人力で押して運んだようで、その様子が写真にも残っており現地には、はっきりと道が残っています。冬枯れの季節には道筋が遠望できます。また善谷寺の裏は急峻な谷で、かって、"ばれた"(坑内用語=壊れる、潰れる)ことがあり、谷底一面に石畳みが敷き詰められ、谷および富鉱帯の採掘現場が守られていたようです。
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鉱石輸送のための道「て津道」 |
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古い絵図にある「て津道(てつどう)」
生野銀山(写真集)大送水路図(推定明治2年作)の一部を抜粋 |
✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きました。
この様な印刷物の種になるお話や、資料・写真がありましたら教えて下さい。
また間違いがありましたらご指摘ください。
(文責 山田治信 )
- 史談会 一里塚11号 「て津道偶感」佐藤文夫著 平成18年3月発行
- 生野銀山(写真集) 発 行 生野公民館 平成4(1992)年10月1日
編集 生野の歴史をつなぐ会 編集責任者 杉浦健夫
こぼれ話 下箒相対死(あいたいじに=心中)
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古文書「相対死一件」 (生野書院蔵) |
生野書院を中心として古文書の勉強をされている皆様がおられます。そのテキストとなった「相対死(心中) 一件」書院古文書No.143という書があり、一件の事件に多数の書類がありますが、その一部分を訳文してもらい、それをもとに編者が適当に現代文化しました。
これを下箒の石仏や供養塔に捧げるとともに、皆様に下箒が如何に難所であり深淵であったかということをお伝えしたいと思います。
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〔事件の発端〕
検 死 願
生 野 御 役 所 寅3月6日
猪野々町 年寄 佐五右衛門
恐れながら御注進申し上げます。
1、当所猪野々下ほうき大川水底に男女と思われるものが沈んでおります。なに
とぞ御見分下さいますようお願い申し上げます。 以 上
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御注進 |
〔事件の経緯〕
聴 取 調 書
(江戸へ報告した多くの報告書の中の一部から抜き出した事件のいきさつと内容)
但州朝来郡生野銀山内
新町 ゆき親 吹屋大工 太郎右衛門
当寅64才
上 太郎右衛門 倅 平兵衛
当寅37才
上の者たち吟味致したところ、太郎右衛門女房は3カ年前に死亡しており、娘ゆき17才とせがれ岩松との3人暮らしであります。
その様な中で、太郎右衛門が近郷の幡州神西郡川尻村に用事があるので、5日朝、ゆきと岩松を置いて一夜泊まりのつもりで行くので、留守の間留意してくれるよう別宅に居るせがれ平兵衛に云い残し、平兵衛はたびたび見廻り大人しく留守をするよう ゆき・岩松にも申し聞かせ、夜分にも行って両人が寝ているところを見届け、戸締り等気を付け帰宅。
翌早朝さらに平兵衛が見廻りに行ったところ、岩松はよく寝入っていたが、ゆきが見えず近所を尋ねたけれど行方が知れないので、早速太郎右衛門が泊まっている先へ呼びにやると共に、一方あちこち尋ねていると、隣町猪野々町の川に身投げがあったと噂されていたので駆けつけて見ると、川端にゆきが普段しめている前垂れを外し、男羽織、手拭など捨ててあり、川の中に男女の死骸が見えたので不安に思っていたところ、
そこへ取調べのため手代たち( 代官所のNo.2 ) が来たので現場に於いて(平兵衛が)前記経緯を申立てていると、太郎右衛門も帰って来て、平兵衛と共に死骸を見届けることを願い出たので引揚げ、とくと見届けさせたところ、ゆき並びに同町下財(坑夫)久蔵の死骸に間違いなく、両人身体を帯で一緒にくくり相果てており、驚いた様子で、
どうしてこの様になったのかこれまで特に心当たりは無いが、当正月中より、ゆきを女房に貰い受けたいと久蔵がたびたび申込んでいたが、岩松が幼少なので、ゆくゆくは ゆきに婿養子をとるつもりで、外にやることは出来ない旨、太郎右衛門はつよく断っていたところ前々から密通していた模様で、縁談が調わないので途方に暮れて相果てたものと、今になって後悔いたし、
浅はかな行為も是非なき次第で、他に怪しいことは勿論心当たりも無く、まこと申し合わせ身投げして果てた事に相違ないと思うので、久蔵の親類その他の者どもに対してもいささかも申し分はなく、ゆきの死骸は片付けたいと願う旨、一同申しております。
但し、太郎右衛門せがれ岩松にひと通り尋ねましたが、幼少でよく承知しておりません。
〔事件の裁定〕 申し渡し内容と請証文
寛政六寅(1794)年5月28日
稲 垣 籐 四 郎 様
御 役 所
差し上げ申す一札の事
下財久蔵並びに太郎右衛門娘ゆき身投げして果てた一件、再度ご吟味(再度代官が
直々吟味)御伺いの上(江戸勘定奉行に伺い)下記の通り仰せ渡されました。
1、下財久蔵並びに太郎右衛門娘ゆき密通の上相対死(心中)したことに間違い無いので
死骸は取捨てにし、葬(とむらい)はしてはならないことが申し渡されました。
ただし、川端に捨ててある衣類等は太郎右衛門並びに久蔵親類千助、善七へお渡し
下されました。
上記は曲淵(まがりぶち)甲斐守様の命令で申し渡された内容を一同承知いたし、もし
これに背いた場合はお咎めが仰せつけられること。
以上仰せに従う旨御請証文(うけしょうもん)を差出します。
当御代官所 但州朝来郡生野
新 町 太郎右衛門
同人倅 平兵衛
同人五人組 伊兵衛 伊助 弥助
豊三郎後家いよ
上四人惣代 伊兵衛
久蔵五人組 利八 久次郎 茂十郎
吉十郎後家よし
上四人惣代 利八
久次郎
茂十郎
加 奉 茂三郎 杢右衛門
久蔵親類 小野町 善 七 千 助
加 奉 弥兵衛
猪野々年寄 佐五右衛門
( 加奉、年寄、太郎右衛門、各惣代 署名捺印 )
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〔 説 明 事 項 〕
- 1、相対死(あいたいじに)
- 江戸幕府は心中は漢字の「忠」に通じるとして、この言葉の使用を禁止し「あいたいじに」と呼んだ。
- 2、相対死と死体取片づけ
- 相対死(心中)は重罪で、生残った場合島流し等の罰がある。死体の取片づけ葬儀も禁止されており、この場合は判決まで2カ月半かかっており、代官所管理のもと仮埋葬されたものと思う。
- 3、手 代
- 手代とは代官所のNo.2副代官で、この場合 長沢津右衛門である。代官が江戸から連れてくるのは1〜2名で手代と呼んだ。
- 4、代官・江戸勘定奉行
- 当時の生野代官は稲垣籐四郎、江戸勘定奉行は曲淵甲斐守。
- 5、請証文(うけしょうもん)
- 江戸時代の訴訟で原告・被告が裁判の裁定に服する時納めた証文。
- 6、5 人 組
- ややしっかりした者を中心に5軒毎に組を組ませ(軒続きではなく)、上からのお達しの周知徹底、年貢の確保、争いの解決、犯罪に対する罰、町民同士の見張り(キリシタン信者の発見)などすべてに共同責任を持たせて支配しやすくするための組織。
- 7、縦書き文書を横書きに
- 古文書は縦書きで、日付・宛先・提出者などは文の後ろになっていますが、横書きにし体裁上一部文の前に変更したところがあります。
このページは、ワード文書としてA4用紙3ページにまとめられた「新町歴史散歩No.9」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)