【最終更新日:2012/2/17】 | |||||||||
[目次][1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17][18][18別編][19][20][21][22][23][24][25][年表] 山田治信氏の新町歴史散歩 12平成24(2012)年2月 新水路で生野町議会も議論百出
生野町には、日本一と言ってもよい程の古絵図があります。その中の一つ生野銀山町大絵図に、町並みや社寺、鉱山などが画かれており、さらに竹原野の奥から鉱山までの山麓に、一本の太い筋があって、ところどころ支柱や石積みが画かれていることから、すぐに水路と判りますが、現在の水路とは思えません。この幻の水路について、「明治以降の生野鉱山史」を引用して述べておきたいと、佐藤文夫氏は書き始めておられます。
「ところが、最近思いがけないことから、百数十年前の姿を現しました。それは新町旧学校(消防庫)裏の傾斜地保護工事により、邪魔ものがなくなって丸出しになったトンネルがそれで、しかも素人目にも綺麗な仕事がしてあるのに、余計に魅せられます。」と佐藤さんは書いておられます。
着工、完成の年は不明ですが、皇室であればこそ出来たもので、一企業では到底できない工事であると言われています。新水路は旧水路の約50m上方に造られ、延長約3.9kmで巾・深さとも旧水路と同じで、開渠(かいきょ=上があいている溝)部は木製の筧(かけひ)をもって導水しましたが、年を経て老朽し徐々にコンクリートに装いを変えていきました。 谷に 地上に 水が 無い
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会所の形式は、水を配る戸数でいろいろな形がありこれは一例です。厚い木の板を切り込みはめ込み組み立てられた。 |
[以下 図・文 編者]
この水路は、奥地区の水供給の役割も担っていました。山の上の水路から各家庭に地下を通して竹で導水していました。竹を継ぎ足し長くするため、ジョイント(繋ぎ手)として松の丸太を使い、所どころで地上の高い所に木製の会所(かいしょ=分配枡)を造り水の分配と圧力確保の役割を持たせました。この導水経路の確保補修は、水の分配を受ける範囲毎(家)の単位で費用を負担し、労力も各家庭が平等に提供しました。
この水の供給と利用は、いつ頃から始まったのか不明ですが、当時の町の古老たちの言を借りると、山の中や地下を掘ったため、地下に空洞が出来て水が地下に浸透して、谷川の水が少なくなったり涸れたり、また井戸水も涸れてしまったりしたため認められた取水のようで、生活確保のため必要なものだった様です。もともと川は上流で堰止められていたし、川の途中では鉱業廃水が流れ込んでいたりして、川からの取水は無理であったこともあります。
近年町の上水道が完備して、この配水は廃止となり会所も無くなりましたが、配水が無くなると今度は排水溝に流れる水が無くなり、町中が非常に不潔な溝になったり、積雪時に融雪が出来なかったりしたので、再び話し合いの結果、水路(かけひ)の数か所から排水溝への導水がおこなわれるようになりました。その後地下への漏水が止まったり、谷川の水が回復しないにも関わらず、平成21(2009)年これまでやっていた水の配水は途絶えました。
また昭和43(1968)年に全国的にカドミ公害問題が起こり、生野でも昭和46(1971)年頃より新聞等が取り上げ騒がしくなり、その当時、生野町内の井戸水の調査を行い、飲料に適さない水質のもの、井戸の底の岩盤に鉱石が出ているものなどありました。
カドミ問題は、兵庫県が昭和47(1972)年3月、イタイイタイ病は認められないとの住民健康調査の結果を発表するに及んで終息を迎えました。
左の写真は、平成21(2009)年に残っていた水の会所です。本来木製ですが、かなり近年のもので鉄製となっています、家に近い所のもので小型です。石垣を利用しているため会所を支える(やぐら)足は付いていません。
✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
この様な印刷物の種になるお話や、資料・写真がありましたら教えて下さい。
なお間違いがありましたらご指摘下さい。 ( 写真・文 山田治信 )
(こぼれ話 水路・ダム)
1、消えた馬淵ダムの契約書
第2のダム(馬淵ダム)を造る時、町議会は、ダムの造成・水利権について議論百出し「御料局経営中に限る」という条件付きで認めたと言うことでした。その後、民間会社移管時どういう経緯を経たのか知りませんし、調べてもいませんが、ただ気になることが一つあります。
ある時、雑然とした古書類の中で、「水利権」と書かれたファイルに出会いました。自分に関係がないので興味もなく、中身を詳しく見たわけではありませんが、上生野部落と民間会社となった鉱山が、馬淵ダムのことに付いて取り決めた契約書のようでした。
今思えば、時代の経緯を語ってくれる大事な書類であったと思います。その後、その書類をもう一度見つけ出そう探しましたが、雑然とした書類のゴミの中に埋まって見つけることは出来ませんでした。
2、両キャップの激烈な水論争
会社の水力発電所を管理していた係員が、発電の水量を増やすため、「水路(かけひ)から部落の排水溝に流している水を止める」との申し入れを総務課長名で町長に通告しました。町長は激怒し、無断で書類を出された会社の総務課長も寝耳に水の出来事でした。
この一枚の申入書は、「過去からの経緯を知らずに何を言っているのか」。一方会社は「町長を呼べ」と両キャップの激烈な論争対峙に発展しました。町も会社も総務課長は後ろに隠れてしまうし、双方の担当者は、トップ同士の激しさに、ただ行き着く先を、見守るより方法がありませんでした。
町長は、会社の幹部を漆谷の上流に連れて行き、上流にはかなりの水があるのに、小学校付近に下ると殆どなく、それは地下の採掘による漏水のためだ。さらに谷に水のあるところは、カドミや坑内水が出ているではないかと主張しました。
所長は、過去の経緯を調べるために、古い人たちに過去の経緯を聞き調べていくと、水路の水の取り入れ口にバルブを取り付けた、写真等の付いた書類が出てきました。所長は、「これは当方が過去に認めているものだ」として矛を収め激烈な論争に終止符が打たれました。町及び会社の担当者とも、胸をなで下しました。
(編 者 文)
このページは、ワード文書としてA4用紙4ページにまとめられた「新町歴史散歩No.12」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)
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