奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2011/4/16】

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山田治信氏の新町歴史散歩 1

平成23(2011)年4月

昔 お銀飛脚 井筒屋

生野銀山と大阪銀座・銅座を結ぶ飛脚


新町ふれあいセンター   新町ふれあいセンター2

「木南家は、今新町の松田萬蔵氏の居られる宅(ふれあいセンター)がそれでした。」と太田先生は書き始めておられます。そこは昔、木南(きなみ)家の住まいで、木南家は井筒屋と云い代々お銀飛脚(おかねひきゃく)をしており、当主木南弥一兵衛(やいちべい)は、鈴木家から養子に来た人でした。

当時、お銀登りといって、生野銀山内で製錬した銀、銅、鉛を大阪銀座、銅座に運んだり、お年貢の金を大阪へ納めに運んだりしました。その時、代官所役人二人が荷物運送を宰領(さいりょう=支配・監督)するために人夫に付き添って行きました。弥一兵衛や綿屋大蔵、與兵衛などが飛脚で一緒にお供をし、そのため大阪へは年に何回も行きました。

飛脚
  • ✽飛脚=信書・金銀・貨物などの配送を業とした者。
  • ✽金座・銀座・銅座=江戸幕府直轄の金・銀・銅貨を鋳造・鑑定・発行をする所。
  • ✽宰領=荷物を運送する人夫に付き添ってこれを支配・監督する役。



木南弥一兵衛と生 野 義 挙

灰吹銀
生野銀山灰吹銀(シルバー生野展示品)

時は丁度幕末、勤皇の志士が盛んに尊皇攘夷(そんのうじょうい)を唱えている時でした。文久3(1863)年10月弥一兵衛が大阪に向かう時、京阪地方の地理に詳しい弥一兵衛に、生野義挙の志士の中の沢宣嘉卿(さわのぶよしきょう)は、京阪地方の同志を集める手紙を、また美玉三平(みたまさんぺい)は、かねて気脈を通じている薩摩の同士に、今日までの事情を知らせる手紙をことづけました。

11日、出発することになりましたが、弥一兵衛の親類や町の人々は、浪士から頼まれたのでは、もし後で代官所からお咎め(おとがめ)があると恐ろしいと言うので、駆け落ちをした様にして駆け落ち届けを出して大阪へ向かいました。

御銀登り
灰吹銀(はいふきぎん)輸送の様子
生野銀山(写真集)より
  • ✽尊王攘夷(そんのうじょうい)=天皇の権威の絶対化と開国反対の主張。


罪人として京の六角牢に

大阪で用事をしているうちに、義挙の生野本陣は解散してしまったことが、聞こえてきましたので、弥一兵衛は大阪町奉行や、大阪鈴木町の代官羽田重左衛門に自首して出ました。荷物を調べると、美玉三平の手紙など証拠書類が出たので、御用達大阪屋定次郎へお預けとなり、翌年2月京都町奉行へ引き渡され、六角の牢に入れられました。

入牢中、元治元(1868)年7月20日、蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こったので、町奉行滝川播磨守は、六角牢入牢中の勤皇の志士をつぎつぎに曳き出して斬りました。弥一兵衛が牢屋の中にいると、つぎつぎ曳き出されて首を斬られる物音が聞こえ、前の小溝に血が流れてきます。もう自分も斬られるか、もう呼びに来るかと、廊下で足音がするたびに肝を冷やしていました。

大阪銀座跡
大 阪 銀 座 跡

11月病気になり、牢から出されて町預けとなりました。こうして日陰の身となり、さびしい月日を3年続けましたが、慶応4年(1868年、明治元年)正月、王政復古(おうせいふっこ)で西園寺総督(そうとく=率いる最高者)が来られるや、謹慎を許されたばかりでなく苗字をつけ刀をさすことを許され、国侍に仰せ付けられました。

  • ✽王政復古=武家政治を廃し君主政治に変えること。
  • ✽蛤御門の変=京都御所外郭西側の門で長州藩が京都守護の幕府の軍と戦い敗戦。


闘 龍 灘 に運河を拓く

大阪銅座跡
大 阪 銅 座 跡

その後弥一兵衛は、播磨の国多可郡、加東郡を流浪する身となりました。加古川を遡ると清らかな水が滔々(とうとう)と流れるところに、奇岩・怪岩がわだかまり船が通れない水運の難所となっている闘龍灘(とうりゅうなだ)がありました。弥一兵衛はこの難所で難儀をしている様子をみて発奮し、村人と相談、闘龍灘の東に運河を拓きました。

後に多可郡的場村に住むようになり、寺子屋を開いたり村の名誉職にもあげられましたが、明治17(1884)年4月25日65歳で亡くなりました。墓は福原村(現多可町加美区的場853)の金蔵寺にあります。


  • ✽本篇は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きました。
    この様な印刷物に載せる話題や、資料・写真がありましたら教えて下さい。
    なお間違いがありましたらご指摘下さい。

( 原案提起 橋爪一夫  文・構成 山田治信 )


  • 銀山昔日
    昭和58年3月31日 町文化財委員会編集 生野町教育委員会発行
    中に下記郷土読本が収録されています。
  • 郷土読本(太田虎一著)
    本著は、昭和10年頃のガリ版刷りのものです。
    太田家の祖は小野に在住し播磨屋と呼び代々山師買吹(鉱石を製錬)を業としました。
    著者虎一氏は(明治27.12.3生 昭和23.6.1没)教員、収入役などのかたわら、「生野史」の原著となった生野誌(鉱業編3部、政治編2部、文化編2部、税に関する研究1部)とその他多くの郷土史研究、著作があります。
  • 生野銀山(写真集)
    平成4年10月 発行 生野町中央公民館  編集 生野町公民館歴史をつなぐ会
    責任者 杉浦健夫



( こぼれ話  萬蔵氏と前栽(せんざい)と私 )

新町ふれあいセンターが開設されたのは平成11(1999)年で、9月15日に開所式が行われました。松田萬蔵氏の遺族が旧生野町に土地・建物を寄付され、それを老人向け施設として有効に生かすために考えられたのが「いきいきサロン」でした。

ふれあいセンターは女性ボランティアで運営し、週3回(月、水、金)老人(女性)が集まりゲームなどを行い、年に何回かは催し物、お食事会、小旅行などを行っています。運営費は市からの補助に加え、女性ボランティアや利用者および区民の協力者が集めてくるアルミ缶の販売代と、年何回かの催し物・行事では参加者か最低限の会費を徴収しているようです。

この邸宅が寄付された時、松田家から「前栽を生かして使って欲しい」との要望があったようで、裏に空地があり建物を引くと表にスペースが出来るという話もありましたが、松田家からの要望にそって使用しているようです。当時その前栽の話を聞いて、ふと60年程前のことを思い出しました。

ある日伯父が「萬蔵さんが前栽を見て欲しいと言われるので、お前も付いて来い」というので付いて行きました。縁側を開け放して萬蔵さんが待ち構えておられました。伯父と私はかしこまって座りお話を伺いました。小学生であった私は話の内容など解りませんし今も覚えていません。まして昔ここが「お銀飛脚  井筒屋」であったことなど知る由もありません。しかし老夫婦の静かなお住まいの雰囲気はかすかに記憶に残っているようにも思います。大切な庭だったのだろうと昔に思いをいたします。

(文 編者)



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このページは、ワード文書としてA4用紙4ページにまとめられた「新町歴史散歩」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウトに若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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