奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2013/2/21】

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山田治信氏の新町歴史散歩 24

平成25(2013)年2月

色々と姿を変えて行った新町河川公園付近


一番館と二番館
一番館と二番館
明治の冬、文明開化の生野町、仏人技師コァニェ氏のための建物。前の円形のものは池でしょうか。明治5年(1872)建築、仏人レスカーの設計。
白口川と市川の合流している三角州に一番館、二番館といわれる豪壮な異人館が建てられ、一番館にコァニェ夫妻が居住しました。一番館は正方形の一辺が30mもあろうかと思われ、階上、階下にベランダが設けられていて、現存すれば、国宝ともなったであろう建物。大正時代お化け屋敷といわれ、人知れず朽ちてしまいました。二番館は朝来町神子畑に移設されました。三番館から五番館は、山神社の東(現サムコ工場付近)に建てられ、そこから鉱山本部前に開化(かいか)橋という名の橋が架かりました。
(写真・説明文とも写真集「生野銀山」より)

河川公園が出来た当時「コワニエ公園」と名付けるべきだという意見もありました。それは口猪野々付近に最初の異人館(フランス人用官舎)が建てられた地域だったからです。

現在の河川公園敷地はもと川原で、古い写真では河川敷のような低い土地が広がっています。

ここは小さな土地ですが、幾多の変遷を経て姿を変えています。最初は川原で、そこに廃泥を捨て廃泥の堆積場になりました。砂とも泥とも言えないものが積み上がり、少し小高くなっていて「どべ」と呼んでいました。

「どべ」と呼ぶ土地が奥銀谷小学校区に4か所あり、そこで遊ぶことがありましたが、「どべ」で遊んだのが学校に知れると朝礼で叱られました。
(どべ4か所=小野河原町稲荷前、久宝ダム上部・ダム裾、現河川公園)

戦後昭和20年代後半頃、その堆積物の中にある粘土を使って坑内で使用する「アンコ」と言うものを造るための粘土の採取場と「アンコ」を造る小屋が出来ていました。そこでは、粘土の掘上げ作業中に、堆積物が崩れて埋まり死亡するという不幸な事もありました。その後、坑内作業を請負う会社の現場事務所としての小屋も建っていました。

白口川と市川の合流部 1
いつ頃の写真でしょうか。口猪野々のトロッコ橋はすでに架っていますが、つづら橋はありません。河川公園部分は、現在より低い土地で平坦にひろがって廃泥を堆積する前の状態のようです。
(写真:生野書院蔵/橋爪一夫氏提供)

白口川と市川の合流部 2
一番手前の少し高い所が現在の河川公園にあたる所です。白い屋根がアンコ製作小屋や請負会社の現場事務所です。後方に建ち並ぶのは口猪野々社宅。遠くには、中猪野々、奥猪野々も写っています。
(写真:生野書院蔵/橋爪一夫氏提供)

この地帯は古い写真にある様に低地で、県営生野ダムが出来る以前は大雨で川に水が出ると、つづら橋ぎりぎりまで水面が上がり、口猪野々社宅の一部や電車道(旧サムコ工場の入り口付近)は水に浸かることもありました。昔、善谷寺がこの付近にあった時、度々水害に遭ったので寺を移転したと記録されていますが、なるほどと頷けるものがあります。ただ現河川公園のある地帯は、廃泥の堆積物で高くなっていたので水に浸かることはありませんでした。

鉱山閉山後、見苦しい堆積場を美化するためか、町の教育委員会がテニスコートを設置しましたが、利用が少なく長らく放置されており、平成10年代後半、八鹿土木事務所及び町が河川敷を含め公園に造成し「新町河川公園」と名付け新町区に管理を委託して、新町区は便所の清掃公園の草刈り、春には河川公園祭りなどを開催していることはご存知の通りです。

公園は「新町河川公園」と名付けられていますが、新町地内ではなく猪野々地内だとおもいます。かつて奥銀谷小学校が朝来郡一の児童数を擁した頃は、猪野々を口・中・奥の三つの部落に分けており、鉱山を支えた大多数の人たちが住み、去っていった地です。これらの人たちの霊や末裔はどう眺めているのでしょうか。「猪野々」という名を残してやりたかったですね。



さて前述の「アンコ」とは何かを説明しなければなりません。

アンコの詰め方
(註)AH−FO=アンホ。

「どべ」とは、金属を含んだ岩石を砕いて、水と混ぜてドロドロにし、その中から金属分を取出し残った廃泥を捨てた所で、最初はかなりの水分を含んでいたと思われますが、年月が経ってだんだん固まったと思われます。その廃泥は、サンド(砂)とスライム(泥)を含んでおり、スライム部分は水が抜けると、丁度粘土の様になっています。河川公園も覆土の下は粘土で芝生の水はけが悪く、また木を植えても根が延びると枯れてしまいます。

しかしこの粘土が坑内作業に無くてはならないものでした。堆積物を掘って粘土を取りだし、水を加えて練り込み円筒形(直径2.5〜3.5p程度、長さ10p程度)にして、完全に乾燥するのではなく水分を少し抜く程度に乾燥して坑内に送り込みました。これを「アンコ」と言い、坑内では岩盤に孔をくって、その孔に火薬を埋め、最後に孔を蓋(ふた)するようにアンコを詰めた後、点火爆破をしました。この詰めものが無いと、火薬の爆発力は孔から飛び出すだけで、周囲の岩盤を砕く力にはなりません。発破のためには貴重な詰め物です。

「アンコ」は元金香瀬選鉱場の跡(現在のシルバーへ登る道路の下になっている場所)で、元手選婦の人たちの手で造られていましたが、現地に原料が無くなったことと、従業員が年を取ったことなどを契機に、原料採集場所の変更と社外への請負化をあわせ猪野々の「どべ」に移設したものです。

以上が河川公園の芝生の下に眠っている歴史です。(文・説明図:山田治信)






(これまでの誌面からこぼれた話)


1、下箒・葛籠畑(つづらはた)周辺の間歩
歴史散歩No.22(24年12月)で下箒・つづら畑の銀脈を取上げましたが、元鉱山本部を通り過ぎて奥方面への入り口、下箒といわれる地帯。今は何の変哲もない国道429号の道筋ですが、つづら橋手前の山側に二つの旧坑が道路のそばに口を開けています。

この地帯の山側(北=太盛側)は千荷(せんが)ひ、川を越えた反対側のダムの下は久宝ひ、ここは将に一大銀脈地帯で多くの間歩や山が栄えた所です。古い書類や絵図などから山の名を拾ってみました。

下 箒 側(山側=太盛側)

 18.栄盛山下箒谷 銀鉱山師 足立太右衛門
 29.大宝山下箒谷 銀鉱山師 太田治郎左衛門
 41.
 
黄金(貴金)間歩
 
下箒道筋
 
鉱質不明
 
山師 喜右衛門
江戸末期 山主 足立太右衛門
 この間歩は 古書には鉱質不明となっていますが、場所的に銀鉱であったことは間違いないと思われます。
寛永8年(1631) 初めて相稼ぎ盛山に及び御所務山に相成り「銀山方留書き」
延享3年(1746) 下箒道筋古間歩1か所字貴金間歩 稼ぎ御座無く候「猪野々町年寄の報告書」
118.玉造間歩下箒谷 銀鉱稼人不詳

葛 籠 畑 側(久宝ダム側)

 40.
 
久太夫山
 
葛籠畑谷
 
銀鉱
 
新町加奉 久太夫
江戸末期 太田治郎左衛門
 この山については次の様な記述もあります。
寛文8年(1668)大盛、6月より御所務山と相成る銀多きこと古今稀なり、この鉱筋寛永年中(1624〜1643)に下箒の道筋に現れければ、作畑の喜右衛門稼ぐ、金気今に途切れることなけれども、大川の下故、樋5丁、3丁並べて水引けども無効にて稼ぎ捨つ。
延享3年(1746) 稼ぎ御座無く候  猪野々町年寄 長兵衛 報告書
119.伊達林山葛籠 銀鉱山師 市橋伊三郎

上記以外に、久宝坑、松寿間歩、金長山、川原敷などの名が見えます。この頁の山の名称の前に付いている数字は、参考にした書物の個所を示すもので、ここでは何の意味もありません。



2、昭和の年代この一大銀鉱地帯に夢を賭けた人がいた
古の銀鉱銀座、久宝・千荷(せんが)地区(下箒とその対岸の久宝ダム付近)に、昭和年代に「夢よ? もう一度」と挑んだ人がいました。

現マテリアルテクノ事務所の裏の市川にコンクリートの沈下道路を付け、トラックが通行出来るようにして機材を運び、久宝ダム下流の岸壁から久宝ダム下へ向けて坑道掘進を開始しました。

その人は、三菱15代目の鉱業所長 奈良勇雄(昭28年〜32年)でした。その立入(たていれ=鉱石を探す水平坑道)を、本人は「夢の立入=ゆめのたていれ」と名付け、周囲も「夢の立入」と呼んで一大生野銀山への復活を夢見ました。

この所長は、その外にも色々の施策に手を付け、周囲や生野町に夢を与え続けましたが、時期・時代悪く本社の認めるところとならず、この立入は中止のやむなきに至りました。しかし最後の鉱山長というか「鉱山屋」で豪快でした。これを無謀という経理筋もありました。

沈下道路 1  沈下道路 2
沈下道路:(左)水が少ない時、浅い時には姿を現わしている。(右)水が多い時、深い時には水面の下に。

3、間歩・山の開発の段階と山の格付け、格式
これまでの誌面で、「御所務山」という名称を各所で使っていますが、あまり詳しく説明できていませんので、現代の鉱業権、出願鉱区、採掘権などというものが、この時代どうなっていたのか触れてみます。

  断 山(ことわりやま)
断山とは代官所に採掘を出願して許可を得た山のこと。

脈筋を発見して採掘に着手する前に、村の用水などに影響を与えないように村役人と取決めをして、地元の村と異議なく交渉が成立すると、代官所に願書を提出、役人が実地踏査をして支障が無ければ採掘許可となり、採掘権を得ると同時に納税の義務が生じ、間歩銀(まぶぎん=税金)を納めることになります。断山の採掘権は1カ年(1月〜12月と8月〜7月)で、途中で出願してもこの期間内に限られます。

また届もせず無許可で採掘した不届き者もあったようで、「この様な噂を聞いた場合には、現状を確かめきつく戒め、直ちに届出をして稼行するように致します。」という町役人が出した書面のことも記されています。

また、昔踊りよりさらに古い踊りの歌詞には、次の様なものもありますので、表に出ない裏の取引もあったようです。
 『抜き荷 抜き売り 御口屋(おぐちや)で止める  止めて止まらぬ色の道』

御口屋(おぐちや)とは小野から竹原野方面に行く小野のはずれにあった番所。
断山は、代官所の原簿では年により増減はあったが、毎年5〜6百以上(生野以外も含む代官所全管内)に達し地役人も整理に苦しんだと書かれています。

  直 入 山(ねいりやま)
      (註)「直」は現在の「値」を意味するもののようです。
直入山は改山(あらためやま)とも言い、断山として探鉱中に ひ脈を発見して鉱石が採れるようになり、山の価値を判断して税額が決定できて、順調に鉱税負担の見通しがたつと直入山となり、役人が時々出張して山の採掘方法や出鉱量を検査していました。

直入山は明和元年(1764=江戸中期)代官所管内39か所(生野銀山内35)となっています。

  白 札 山(しろふだやま)
断山、直入山のうち有望な鉱脈を捕捉し、良好な鉱石を採掘出来るようになり本格的に活動期に入った山のこと。

白札山は、願い出た区域が認められれば鉱区が定められ、この鉱区内には他の侵犯を許さない独占権が与えられます。出鉱が続く限り白札山の特権を与えられますが、出鉱量が減少すれば直入山または廃山となり、白札を返却することになります。(白札とは特に白札山としての許可証はなく、採掘願書の終わりに代官が白札であることを認めた印を押したもの。)

  御 所 務 山(ごしょむやま)
白札山で出鉱量が多くなれば、御所務山となり定詰(じょうずめ)役人が2人昼夜詰きりで監督し「四つ留奉行付きの御山」と呼称され、坑口に四つ留支柱を施し、御所務山の栄冠が付与され、山師たちの究極の願望もここに到達することでした。また御所務山詰役人の業務や取締の掟もありました。

役人が常駐する御所務山以外は夜番稼(よるばんかせぎ=夜の稼行)は禁止されていました。

(以上 生野史鉱業編 P121〜144より)



さて、ここで「よるばんかせぎ」などという言葉が出てきました。私が社会人となった頃は、労働基準法など出来て、1日を8時間で3交替する勤務が原則で、監視断続的に仕事をする職場・職種に12時間2交替という勤務もあり、通常3交替を「一の方」「二の方」「三の方」と呼び、夜を「夜勤=やきん」と呼んでいましたが、小さい子供の頃、世間で鉱山の夜の勤めを「よるばん」と言っていたことをふと思い出しました。「よるばん」とは古い昔からあった言葉のようです。

昔(戦前でも)は1日3交替など思いもよらず、昼番と夜番だけだったのでしょう。昼夜をわかたず採掘した御所務山も、昼番稼(ひるばんかせぎ)と夜番稼(よるばんかせぎ)だったのでしょう。

(文 山田治信)





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このページは、ワード文書としてA4用紙7ページにまとめられた「新町歴史散歩No.24」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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