奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/11/20】

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山田治信氏の新町歴史散歩 21

平成24(2012)年11月

大用禅寺

ここから始まった恩寵の谷


大用禅寺

天徳山(銀昌山)大用禅寺
 永平寺派 字二本松下1198番地
  本 尊  阿弥陀如来

このお寺の寺歴には色々とあるようですが、永正8年(1511年 室町後期・戦国時代)頃、神子畑鉱山の地に建立されましたが、鉱山が廃れたので天文10(1541)年頃、山が栄えていた生野に移されたとのことです。

山号は神子畑時代「銀昌山」と云いましたが、生野に移ると近くに銀昌山仙遊寺があったので天徳山に改めたと言われています。「天徳山」という名称については、関係があるのかないのかは別にして、次の様な所にも使われていました。

寛政2(1790)年4月、内山茨谷(いばらたに)二人山、皆石(みないし=銀鉱)切出し、ことのほか銀気強く夥しく盛る。山の名を天徳山と改む。
山師 奥銀屋町 嘉四郎、太平次。[生野史 鉱業編P39]

旧大用禅寺
改築前の大用禅寺(写真:一里塚5号より転写)

大用寺は、昔寺の境内が320余坪で七堂伽藍があり群中の名刹の一つであったと書かれており、現在地に大伽藍があったとは考えにくいのです。また明和6(1769)年の新町大火の時、あの周辺が焼けたにもかかわらず、大用寺が焼けたという記録も無く、まして翌年の明和7(1770)年12月1日、大用寺より出火し寺町が残らず焼失した等の記録などから、広い土地で寺町に隣接する場所といえば旧奥銀谷小学校運動場あたりが想像できます。現在地は元禄5(1692)年春に建てられたと記録のある、衆寮(しゅうりょう=多くの人の寄宿所)であったという説が正解のように思えます。そして寺はその地に移り、衆寮を本堂として現在に至りました。その堂宇も近年老朽が激しく取壊して平成11(1999)年新築されました。
  (註)寺町=奥銀谷上町と旧小学校との間にあった通り、現在は運動場の下になっています。
      戦前道路だけは残っていましたが、戦後の運動場拡張工事で埋まりました。


現在地にある十六羅漢の近くに元奥神宮寺があったなど、漆谷周辺には興味をひかれるものがあります。十六羅漢はもともと大用寺の僧が製作を依頼しましたが、故あって寛政9(1797)年神宮寺に納められ、明治25(1892)年に大用寺に移されたと言われています。

十六羅漢
十六羅漢が並ぶ庭とその中の一体(写真:西森秀喜氏)

「裸幸兵衛 相沢稲荷の霊験記」(鉱業編P46)にある幸兵衛の墓も内山寺から移され墓檀家となっており、生野代官の親族の墓もあって、生野代官の菩提寺と書いている本もあるようです。

平成22(2010)年には、元漆谷庵の観音像33体などが合祀されました。漆谷庵は、現大用寺の少し奥に宝暦元年(1751)梁瀬の桐葉寺を開山した要門大和尚が開基した庵で、近年庵の老朽が激しく建物を取壊した後、奥銀谷の白瀧彰氏が保存、仏師による修理を加えた後、当寺に合わせ祀られ本堂に尊厳と輝きを加えています。

三十三観音
漆谷庵より移された33体の観音像(資料・写真提供:白滝彰氏)

また作家 故立松和平氏の母方の祖で、奥銀屋塩野町(または庄野町)に住まいがあった立野屋 片山家の墓地があり、片山安五郎や市右ヱ門の寄進・寄付札が残っているようです。内山さんの参道にも、施主立野屋彦太郎で79番石仏 舟形光背一面観世音菩薩像もあり、立野屋は明治26年頃まで生野に居住されていたようです。その様な関係で、和平氏は当寺改築にあたり鐘楼再建の寄進をされ、生野銀山の技術を持って鉄道東海道線の工事などを辿りながら、足尾銅山で一旗あげた立野屋市右ヱ門をモデルに、小説「恩寵の谷」を書かれました。

(文責 山田治信)




✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。


  • 生野史4 神社仏閣編
  • 一里塚5号(平成10年3月発行) 古地図に残る奥銀谷周辺の社寺を訪ねて 佐藤文夫著
  • 一里塚7号(平成12年3月発行) 大用禅寺昔日 佐藤文夫著
  • 天徳山大用禅寺(羅漢寺) しおり
  • CD 石仏の道「うちやまさん」 製作:西川屋守蔵(成田守氏)
  • 「廓山要門大和尚」小伝 桐葉寺開山300年祭記録 昭和54年10月
  • 立松和平氏著「恩寵の谷」




(こぼれ話 岩に咲く花・捨石の上に咲く花)


大用寺と言えば立松和平氏の「恩寵の谷」という著作です。
生野の場面では、「柴又楼」という懐かしい名が出てきます。往時の柴又楼を知っているわけではありませんが、子供の頃、祖母から「柴又」という名をよく聞いていましたし「柴又のおばあちゃん」というお年寄りも居られました。

片山家の墓地
立野屋 片山家の墓地

また足尾の場面では「廃石捨て場の斜面は鉱石に毒があるせいなのか雑草も生えない。その斜面のあちこちに2畳ほどの筵小屋が建てられ出稼ぎの娼婦が「どぶろく」を売っている。床を望む客があると「兄さんたち、ちょっとの間、外で待っててね。順番で次に誰が来たっていいからね」と言って外に追い出す。と書かれています。「P305〜309」
捨石の上に咲いたはかないあだ花である。

他の書物で、生野の採掘地帯では土地が狭く傾斜地であったので、傾斜に沿って上向きに三階建ての小屋を建てると、三階から立小便をすると二階の屋根に、二階からすると一階の屋根に落ちたと、傾斜地の家の建て方が表現されていたのを思い出し、同じような風景だと思いました。

この著作には、生野で育った3人の鉱夫が、工事場を渡り歩いた末、足尾銅山で苦労をしながらも大直利(註)を当て、やがては鉱夫飯場を持つ組頭となり、組の名をそれぞれ生野組、但馬組、銀谷組(かなやぐみ)と名付けたと言うお話があり、生野からの思いをかなえ最後は「よろけ」で死んでいきます。
 (註)直利(なおり)=鉱床の中で特に品位の高い部分、富鉱帯。

恩寵の谷

生野の鉱山の石は「堅くて、しかもしわい」といわれ日本で有数の堅さで、ここで磨いた腕と技術は他に引けをとらないと言われており、「恩寵の谷」に出てくる3人組と同じように、多くの人がその腕をもって各所に散って行ったと思われます。琵琶湖疏水工事の殉難者の中のも新町の出身者の名が見受けられると言うことです。(成田守氏談)


金香瀬坑口の近くの岩面に「岩つつじ」の群生地があります。その花は4月中頃に白に近い薄い黄色の花を咲かせます。ボールペンなどな無い時代、会社では2色用のインクタンドと筆ペンを使っていましたので、その花の枝を折って赤インクに浸けておくと花びらが赤くなり、青インクに浸けておくと青い花びらになりました。

この花が咲く頃になると、地上は穏やかでのどかな春の気候です。そして坑内に勤める人たちが、ポツリポツリと止めて各所の隧道工事や地上の工事現場へと散って行きます。外の空気がうまい、太陽の光が恋しいと切に願う季節なのでしょう。空気と太陽と地上を求めて山の穴ぐらを抜け出し去っていく。だからこの花の別名を「けつ割り花」と言いました。去って行った人たちの一部は、冬が近くなるとまた山に戻って来ました。退職してもまた雇ってもらえる悠長な時代でした。ただし再雇用は腕が良くなければダメでしたが。

(文 編者)





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このページは、ワード文書としてA4用紙5ページにまとめられた「新町歴史散歩No.21」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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