奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2011/8/23】

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山田治信氏の新町歴史散歩 6

平成23(2011)年8月

神宮寺・旧学校があった地,そこは古い地番で二本松下という



断崖の上に一本松(遊びの拠点)があった

「旧学校・神宮寺」と場所を言っても何処なのか解らなくなってきています。それは現在の新町消防庫の所です。

私が知った頃は広場で、石垣で上の段と下の段に分かれていて、中央に石段があり、その両脇に背の低い門柱が立っていました。上の段の東端の山の登り口にお稲荷さんが今と同じようにありました。


二本松の山

上の段も下の段も、当時としてはかなり広い空地で、新町東部(新町の東半分、坂町を除く旧新町)の小学生が朝登校する時の集合場所となっており、私たちより年代の若い層は、三角ベ−スの野球をやっていたように記憶しています。戦後、漆谷川の橋のほとりにあった火の見櫓(やぐら)や、消防車庫などが順次ここに移ってきました。その後、上の広場には会社の社宅が建ち、閉山後民家が建ちました。また昔より秋の氏神祭の時には、神輿の御旅所(おたびしょ=本宮から渡り来て仮にとどまる所)となっていました。


稲荷社

それに引換え、その広場の後には岩の断崖があり、本来寺の裏からこの辺にかけては、扇山側から川と町並みの下を潜った鉱脈が再び頭を出し、鷺林(さぎばやし)坑など旧坑地帯となります。その断崖の上に出ると大きな松の木があり、一本松と言ってなじみの深い遊び場でした。桐の木稲荷付近から廻り道でその断崖の上に出て、大きな松の周囲にわら縄と伐採した木の枝で囲みを作り、戦争ごっこの陣地としたり、一本松を集合場所に選ぶなど遊びの拠点としていました。

消防車庫

その頃は、下の広場の地名を二本松下と呼ぶ事など知りませんでしたし、年寄りが旧学校、神宮寺と呼んでも特に興味を持ちませんでした。この広場の地番を「二本松下」と呼ぶことを知って、子供時代には断崖の上の山をなぜ一本松と呼んだのか、そう問いかけた結果、昔、松の木は2本あったが、枯れて1本になったためだろう。そう思うのが一番簡単な結論でした。


石垣
奥山神・神宮寺時代のものと言われる立派な石垣の一部

さて、広場の昔に帰ります。明和4(1767)年江戸時代、漆谷より奥神宮寺がこの地に移って来ましたが、明和6(1769)年の新町大火で焼失、2年後の明和8(1771)年この地に再建されました。また、神宮寺がこの地に来てから16年後、天明3(1783)年に漆谷の「山の峯」にあった奥山神も移ってきて、明治25(1892)年現在の山神宮付近に移るまで109年間ここに鎮座していたとのことです。神宮寺がこの地に来てから125年になります。

現在のお稲荷さんは、奥山神が鎮座していた当時、奥山神鎮守稲荷大明神としてここにあったものが、奥山神と共に現山神宮付近に移られたのですが、その後、付近の皆様が、再び井の口(愛宕山麓)より分霊を移し祀られたようです。

旧学校の門柱
駐車場に埋まっている旧学校の門柱

その後、漆谷にあった奥小学校が移って来て13年間学校でした。上の広場が校舎で、下の広場が運動場であったようです。前記門柱は、その学校の門柱だということで、現在その片割れの一つが、唯念寺と道路を隔てて前にある駐車場に埋まっています。もう一つは、収集家が持って帰られました。

奥銀谷小学校は、漆谷にあった旧幕府時代の「奥米蔵」を利用して、明治7(1875)年に設立されました。その経緯を示すため、校章に「米」の字が入っています。

奥山神も遷宮し小学校も移って、その後は三菱の土地となって、テニスコートなどがあった様でが、新町下町にあった新町区の所有地(久篤橋付近、現在の市営住宅1、2号付近)を、鉱山が社宅用地として欲しいとのことで、下町のその土地と旧学校の下側の広場とを交換した経緯もあるようです。その後の変遷で現在は新町区の土地ではありません。


奥山神・神宮寺の変遷(生野史より)

  • 明和4(1767)年 奥神宮寺漆谷より二本松下へ(現 消防庫の所)
  • 天明3(1783)年 奥山神も漆谷より二本松下へ移る
  • 享和3(1803)年 稲荷大明神を請けて奥山神鎮守稲荷として二本松下に併せ祀る
  • 明治始め3年頃(1870年以降) 神仏分離令に従い仏式関係(毘沙門天など)仙遊寺へ堂宇移設、神式の金山彦命のみとなる
  • 明治25(1892)年 山神宮愛宕(現山神宮付近)へ遷座、稲荷大明神も同時遷座
  • 明治の終わりか大正に再び稲荷大明神を井の口より二本松下に分祀

奥小学校の変遷(奥小閉校記念誌、一里塚7号 郷学について 等より)

  • 明治25(1892)年 奥小学校を漆谷米倉より移転建設
  • 明治37(1904)年 元奥小学校の所在地に移転
校旗
旧奥銀谷小学校校旗に刺繍された校章(奥地域協 保管)
米の字は明治七年代官所奥米倉を利用して誕生したことに由来します。


✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きました。
 この様な印刷物の種になるお話や、資料・写真がありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘ください。

(写真・文責 山田治信)

  • 生野史 4  神社仏閣編
  • 奥銀谷小学校閉校記念誌「しろがね」
  • 一里塚 7号 郷学について  池谷春雄著



こぼれ話  消 防 団

消防団第3分団の器具庫は戦前及び戦後のある期間、唯念寺前の駐車場付近漆谷沿いにあり火の見櫓も建っており、半鐘の音も聞きました。戦時中は消防ではなく「警防団」と呼んでおり、軍がラジオを通して発表する敵機来襲の放送を聞いて、「警戒警報発令」さらに近づくと「空襲警報発令」とメガホンで叫んで廻りました。警報が解除されると、そのこともふれてまわりました。夜は、警戒警報発令で、白熱電球に覆いをかけ明りが外へ漏れないよういにし、空襲警報で殆ど真っ暗に近い状態にしました。これを「灯火管制」と言いました。

日中には、婦人会(当時は大日本国防婦人会と言いました)と一緒になって、一列に並んで水の入ったバケツをリレーし、消化活動をする訓練もしていました。ご婦人も防空頭巾、「もんぺ」という服装でした。また各家に防空壕を掘れという指示も出ました。

たしかに、時々京阪神を爆撃した飛行機が北西に脱出する時に生野の上空を通過しました。学生の時、山の斜面で炭焼きのため木の伐採作業をしている時、操縦者が見えるような至近距離を戦闘機が飛んで行きました。機銃掃射された時には、飛行機が飛んで来る方向の斜面に身を伏せるとよいと話合っていましたが、アメリカのグラマンという艦載戦闘機が出現するにおよんで、機首と後尾に銃座を持っているので、降下しながら銃撃し上昇する時に後の銃座から撃たれるので、どちらの斜面にいても駄目だろうということになりました。

消防ポンプ
昔の手引き消防車
前にエンジンを回すクランクが付いている。この写真は、タイヤ、チューブが付いているが、車輪はゴムを巻いたものであった。

戦後再び消防団になりましたが、消防自動車はまだありませんでした。新鋭の消防車と言えば、水を吸上げて吐き出すためのポンプとそれを回すエンジンを搭載した手押し車で、大勢で「わっしょい、わっしょい」と引張ったり、押したりして目的地に走りました。エンジンを掛けるにしても、今のようにスイッチではなく、手回しでクランクをまわしやっとエンジンがかかる代物です。旧生野小学校(現在地)旧生野高等女学校(現生野中学校の場所)が焼けた時も3分団の車庫(新町)から走ったものです。今思えばよく走れたものです。

(文 編 者)





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このページは、ワード文書としてA4用紙5ページにまとめられた「新町歴史散歩No.6」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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