山田治信氏の新町歴史散歩 23
平成25(2013)年1月
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大乗妙典五百部供養塔
宝暦11年(1761)5月吉日銘刻 |
山号を銀泉山と言い、浄土宗知恩院派 現在は新町字上山にありますが、寺院明細帳に文禄元年(1592)縁誉知傳和尚の開基となっており、寺の場所を猪野々村字奥野々3番地と記しています。
縁譽(誉)和尚は東恩寺(現東西寺)を開山(1598年)した迎誉上人の弟子で、出生は当町坂町那波屋源太夫の孫なりとなっております。元和4年(1618)には玉翁院(廃・二区茶畑)も開いたようで、生野史神社仏閣編の玉翁院の項では『摂津国山田庄、姓は源氏、父は長瀬源太夫、竹田家一族 新羅三郎義光31代の裔孫(えいそん=遠い子孫)にて、縁譽上人と称す』口銀谷長瀬鶴太郎家はその末裔と書かれています。
善谷寺は、あちこちと移転したので、その所在を特定するのは難しいようで、生野史には、太田氏の原著と柏村氏の校補が併記された上で、良質の資料によるものではなく、誤りは免れないが、と断りの上概略次のようにまとめられています。
『創建当時は寺床(てらどこ=猪野々の奥白口川の右岸)にありましたが、明和6年(1769)新町大火の飛び火で類焼し、向山の麓(現猪野々墓地の下)に移り、ここでは度々水害に遭っていました。丁度その頃、その地が天授坑の採鉱拡張の要所にあたるので、明治27年(1894)9月御料局生野支庁の命で現在地に移転しました。』
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善谷寺墓地の徳本上人名号碑 |
この移転経緯の中で、「寺床」は寺床または寺床口という字が猪野々の奥、白口川の右岸にありますので頷けるものがあります。口猪野々(向山の麓)に移った後たびたび水害に遭ったということも、近代にも口猪野々の電車道やその周辺の社宅が浸水した事実があり理解できます。しかしその後に記されている、天授坑拡張の支障となり口猪野々から立退きとなったというのには、無理があるように思います。それは天授坑が口猪野々の対岸の上流でかなり離れているからです。
天授坑は、桐の木稲荷裏山の天受各山の総水抜坑で新町坂の上にあり、天授の拡張で立退きとなるには、この寺が天授坑の近くにあることが必要で、この寺の移転経緯の中で、もう一か所新町桐の木稲荷付近に位置した時期が必要だと思います。
また明治27年とは、山が三菱に払い下げられる2年前で、その時期に地上から天授を開発する必要があったとは考えられず、もし土地を必要としたのであれば、その他の鉱業用地(官舎用地など)だと思われます。
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寛文11(1671)年に建てられた碑
施主として新町の人々の名が連なっています。 |
さて現在地にも色々前歴があるようで、清浄庵という西光寺末寺がありましたが、西光寺に返却廃寺とした。また長瀬源太夫が延宝の頃(1673〜1680)直入庵を興して常住し、後に光明庵と名を変え、善谷寺が清浄庵を買収移転した際には、光明庵の本尊を祀り庵は廃されたなどと記されています。
善谷寺には文化8年(1811)9月には口銀谷の東恩寺(現東西寺)に続き徳本上人が3日間逗留し追善法要や説法が行われたことになっていますが、現在地に移る以前のことだと考えられます。猪野々の墓地を見ても、現在地に移る前は、かなり大きな規模の寺であったことが想像出来ます。口猪野々の墓地には、徳本上人名号碑(みょうごうひ)もあり願主は元雄となっています。
この寺にまつわって出てくる「源太夫」あるいは「那波屋」という名前に、何か不思議な誘惑を覚えるところですが、調査・研究出来ていませんので語れませんが、この名前が何処で出てくるかという事だけは記しておきましょう。
先ず、前記開祖の和尚は、新町坂町の那波屋「源太夫」の孫または子であると言うことで源太夫の名が出てきます。また、新町の長瀬「源太夫」という人が、直入庵を造り後に光明庵と改め、善谷寺となったということも書いてあります。さらに現在の口猪野々の墓地近くに、「那波屋敷=なわやしき」という間歩(旧採掘個所)の存在が銀山間歩位置図に記載されていますので、「那波屋敷」とは那波屋所有の間歩であったと思われます。さて坂町の那波屋とは源太夫とは何者だったのでしょうか。
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宝永5(1708)年に建てられた碑。 |
最後に、この猪野々の墓地には、各地から鉱山にやってきた人たちの色々の宗派の墓が混在しており、歴史を語る多くのものがねむっているように思えます。
また現善谷寺の裏の谷は急峻で、奥は盛徳地区という富鉱帯があり、そこから選鉱に鉱石を運び出す路があったこと、その谷や谷の奥の採掘地帯はかって崩壊・崩落したことがあり、石畳を敷きつめて守られていることなど別の項で記しました。
現善谷寺の登り口近くに南光院があったようで、生野史神社仏閣編から南光院・宝光院について抜粋してみます。
南光院 新町字2丁目上筋 ? 番地
開基 寛政11年(1799)7月中創立
本尊 帝釈天
大師堂 本尊 弘法大師
宝光院 新町1丁目上筋1045番地(桐の木稲荷の登り口周辺か)
大正4年(1915)1月15日付で南光院に合併
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昔の善谷寺周辺(矢印は善谷寺) |
南光院・宝光院は、山伏に象徴される山岳信仰と仏教の密教性(深遠で閉ざされた教え)を折衷・調和させた修験道の道場であったと言われています。奥方面には小野に宝生院もあり、この地域に相当数の信仰者があったことを語るもので、「この地には山で働く人が多数移住しており、その宿命的生活からくる空虚な気持を癒す拠りどころとして、力強い修験道の信仰を実践し救いを求めたのではないか。」と神社仏閣編に書かれています。
一方、修験者が山や谷を越えて歩きまわるのは、修練苦行を実践することはもちろん他に金・銀・水銀などの発見も目的としたという、説をとなえる研究者もあると書かれています。
また昔の人が「庚申(こうしん)さん」と呼んだ信仰の場も兼ねていたようで、神輿や見石が出た昔の山神祭には、南光院の行者が法螺貝(ほらがい)を吹いて参加していたことや、大正8年(1919)から町内を走っていた乗合自動車の停留所に「南光院」というのがあります。
南光院を説明するには、私も勉強し直す必要があり、また別の紙面が必要となるので省略致しますが、庚申さんのことは、史談会の一里塚(11号平成18年3月発行)に山木武男さんが生野町内の調査結果を発表されています。
( 写真・文 山田治信 )
✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
- 生野史4 神社仏閣編 善谷寺 第三章 民俗信仰
- 生野銀山間歩位置付図 山田定信・椿野兵馬両氏 調査・作成
- 史談会一里塚11号 町内の庚申信仰と庚申塔 山木武男著
(こぼれ話 銀 山 茶)
銀山茶のルーツ
『銀山廻り茶改め帳(ぎんざんまわり&nbap;ちゃ あらためちょう)』は「明治以前の生野における茶の栽培を裏付ける唯一の資料で、天和3年(1683)の江戸初期の時代に、既にお茶の栽培が盛んに行われていた様子が窺われる」と史談会の海崎陽一氏は書いておられます。
海崎氏の説明をさらに続けると、「茶改め帳」は、茶役銀(税金)を取立てるために、お茶の木一本一本を丹念に調査し、一本につき銀六厘を取り立てたと言う事です。その台帳には、その時代の地名、人名等生活の一端を偲ばせる興味深いものがあると紹介されています。
町内の作付状況は
口銀谷方面 2,623畝
奥方面合計 2,705畝
総 合 計 5,328畝(せ・うね)
新町980畝、奥銀谷 1,560畝、小野村35畝、相沢町130畝と記されており、新町は全体の約18%になります。
「畝」という当時の基準は、現在の面積(1畝=30歩=30坪=約100u)を表すものではなく、お茶の栽培状況を表す独特の単位ではないかと記されています。
以上の中から新町の作付内訳を、新町地内と新町地外に分けて表にしてみました。
(新町地内作付分の内訳)
作付場所 | 量(畝) | 所有者の住所 |
所有者名 |
坂のはし | 210 | いもじ町 | 久 太 夫 |
〃 | 35 | 坂 | 長 兵 衛 |
〃 | 130 | いもじ町 | 次郎兵衛 |
善谷寺の上 | 15 | | 本 来 寺 |
〃 | 25 | | 善 谷 寺 |
小 山 | 50 |
新 町 | 仁左衛門 |
〃 | 70 | 新町油屋 | 三郎右衛門 |
〃 | 20 | 横 町 |
久左衛門 |
〃 | 90 | 下町買吹 | 重 兵 衛 |
〃 | 15 | | 仁 兵 衛 |
〃 | 25 | 木 原 |
浅右衛門 |
〃 | 20 | 塩 の 町 | 太郎太夫 |
〃 | 60 | | 淨 光 寺 |
薬 師 谷 | 15 | | 〃 |
〃 | 200 | | 西 岸 寺 |
(新町の住人が奥銀谷地区に作付しているもの)
作付場所 | 量(畝) | 所有者の住所 |
所有者名 |
薬師谷北平 | 45 | 新 町 |
仁右衛門 |
うるし谷 | 40 | 菊 屋 |
勘 兵 衛 |
内 山 坂 | 10 | 横 町 |
久左衛門 |
一里塚7号「銀山茶考」 海崎陽一著より
これを見ると名前、町名、職業名など解らないもの疑問なもの、面白いものが出てきます。坂のはし、いもじ町、横町は解るが、小山、木原とは何処なのか、新町以外の地名か。お寺も茶を作っていたようだ、税(茶役銀)も同じように払っていたのだろうか。
善谷寺の上とあるが、現在の善谷寺の裏は急峻な谷なので、上とは坂の上の方向(市川の上流側)を指すのだろうか。そうすれば、坂のはしとは善谷寺より下流側と理解できるのだが。しかし小山は解らない。
さらに、海崎氏は、「茶改め帳」が作られた天和3年(1683)とは、「銀山旧記」という生野の歴史が記述されている古い書物の最後の年にあたると書いておられます。
(文責 山田治信)
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口猪野々社宅も見えておりあまり古い写真ではありませんが、善谷寺の上流、下流とも沢山の段々畑が見えます。昔これらの畑にお茶の木を沢山植えていたのでしょうか。 |
記事訂正のお知らせ
歴史散歩 No.11 に一部誤解を招くような箇所がありましたので訂正いたします。
訂正前:
山名が退いてから約10年後の永禄10(1567)年、堀切レの山で銀が夥しく出て金香瀬鉱床発見、開発の始まりとなります。
訂正後:
山名が退いてから約10年後の永禄10(1567)年、堀切レの山で銀が夥しく出て金香瀬大谷筋奥の採掘が始まります。
このページは、ワード文書としてA4用紙5ページにまとめられた「新町歴史散歩No.23」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)