奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2011/10/25】

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山田治信氏の新町歴史散歩 8

平成23(2011)年10月

下箒の道

下箒(したぼうき)は、奥方面に通じる道路の喉首(のどくび)にあたり、交通の要衝です。しかし、かつては立ち塞(ふさ)がる断崖と魔の淵に遮(さえぎ)られて通ることは出来ませんでした。それが今日の姿になるのには、昔人の努力と苦労の年月がありました。

下箒の断崖は役の行者(えんのぎょうじゃ)様などが祀ってあり行者岩と呼ぶようです。昔は岩が川に突き出しており通るのが困難で、この岩の上に山路が通っており、その路を上箒(うはぼうき・うえぼうき)といっていました。鉱山が盛んになるにつれて、この山路には大層困りました。



猪野々町から猪野々村へ  白口川を渡り猪野々村から新町へ

そこで徳川の初めの頃だと思いますが、猪野々町と云っていた今の鉱山の本部がある周辺から、対岸の猪野々村(口猪野々)へ渡り白口川を渡って、さらに新町への橋を渡る路としましたが、それでもえらい遠回りでした。
[註] 現在のマテリアルテクノ社上流側の駐車場あたりから橋を渡り、久宝ダム下の堆積場あたり(昔つづら畑と言った)に渡り、そこから白口川を渡りさらに現口猪野々から新町に渡る橋があったものと思われます。

白口川を渡る昔の橋
旧久宝テニス場の登り口少し上流に白口川を渡る昔の橋(現在川底に橋脚跡)
橋脚跡−1  橋脚跡−2
現在も残っている川底の橋脚跡

行者岩下、魔の淵に桟橋のような路を

その後、宝歴年間(江戸中期、西暦1751〜1764年、260〜247年前)行者岩の川伝いに60メートル程板をわたして、桟道(さんどう=切り立った崖などに棚のように設けた路)を作りました。下箒道路の始まりです。路はよほど近くなりましたが、困ったことに大水が出るとすぐ流されてしまうし、板や柱が腐って危うくなりこの近道も通れないことがたびたびでした。

『下箒の語源は「ほき」という古語である。「ほき」とは山腹の険しい路のことで、下箒には昔「上ほき」と「下ほき」の二つの路があった。「上ほき」は大回りの山路であったし、近路の下ほきは、市川と白口川の合流点の淵に沿った危険な路であった。』(一里塚11号 生野の石碑 岩宮佳朗氏文より)



初老の祝いに築路、供養塔

その後10年ほど後の明和4(1767)年に、代官平岡彦兵衛の元締大井田与五郎に願って、石を積んで築地(ついじ)にし、幅2メートル程の道をつくりました。
しかし、天明5(1785)年の大水に折角の道が流れてしまいました。そこで奥町の町役人(地区の代表者たち)は相談して、時の代官内方鉄五郎に願って代官所から費用を借りて道普請(みちぶしん)をすませました。金を返すには、代官所から下される人別米の代金を代官に納めるときに少しずつ多く納め、年賦で返すことになりました。今日の低利資金を借りて公共事業をやるようなものです。



桟道が築地(ついじ)の路に

築路供養塔
築路供養塔(写真:西森秀喜氏)

その後、天保4(1833)年4人の山師による路の補修と供養塔の建立が行われました。発起人の松本俊次郎は、42歳で初老の祝いをしなければならなかったのですが、ドンチャン騒ぎで飲み食いしてしまっては、お金が死金になる。同じ使うなら活かして使おうと、同じ山師の太田(猪野々)穐山(あきやま小野町)西村(奥銀谷町)漆垣(同)と相談して、下箒の道を修繕することになりました。銀三十一貫六百目を出し合って、岩も削り取り丈夫な道をこしらえました。

その記念と、「下ほき」の危険な道で遭難した先人を弔うものとしてこの碑が残っています。


【この項及び次項については、内容が「明治以降の生野鉱山史」P216、217と若干食い違う点も見受けられますが原文を活かしました。この相違は朝来誌と碑文のどちらかに準拠するかの違いのようです】


供養塔−銘

この供養塔は、「一里塚11号 生野の石碑」岩宮佳朗著の中で記事に出てくる石碑のうちで、一番古いものであると記されています。



現代の基礎となる道の完成・修道碑

下箒修道碑
下箒修道碑(写真:西森秀喜氏)

明治22(1889)年の8月、連日の豪雨で市川の水は物凄く渦を巻き、波を立てて流れ、そこここの橋も流れました。この洪水で下箒の道は、すっかり洗いさらわれてしまいました。修繕のため、町民はいろいろ相談をしましたが、お金がないので困り切っていました。

この年3月、生野鉱山は皇室の御料となって、御料局生野支庁が置かれていました。長官朝倉盛明は、この町民の難儀を見るに忍びず、いろいろ斡旋して遂に御下賜金1,040円を頂きました。町民は、聖恩に感激して夜を日についで復旧に努め、大きな岩を掘り取り高い石垣を積み上げて、今日の道路の基礎となる本格的な形ができました。町民の喜びはたとえようもなく、この御恩を記念するために碑ができました。



〔下 箒 修 道 碑 文〕

但馬の南境に一村あり生野という。地勢深い岩山なり。山をけずり谷をうずめ、もって新道を通ずること三百余歩、これを下箒という。これ道なり。しばしば水のやぶる所となり、崩壊修理を繰り返す。民つねに憂いとなす。明治巳丑(22(1889)年)8月大雨続く。河水満ち溢れ決壊、寸地も留めず。村人みな議して修理せんとするも費用調達出来ず。従って修理できず、道に頼ることかなわず進退きわまる。
御料局支庁長官正五位朝倉盛明聞きて心動かされていわく、人民の苦痛かくのごとし、われいずくんぞ手を袖の中に入れて、傍観することが出来ようや。実状を述べ上聞(天皇の耳)に達し、特別のはからいで金1,040円を賜る。そして土木作業をうながす。民みな手を打って舞い踊り作業につき、日ならずして竣工す。平で曲がりなく堅固で丈夫なこと砥石の如し。ここに於いて村民敬意を表し喜びいわく。これより先洪水の恐れなし。これ実に朝倉公の賜なり、石を建てその功績を刻まんと欲し。余に委嘱してこれに刻(きざ)ましむ。
銘にいわく、降水下箒の道を崩壊し、人みな行くに困る。馬もどうして駆けられようか。朝倉公憂慮(ゆうりょ=心配して思案)遠大な計画をたて、修理緒(ちょ=いとぐち)につく。万世憂いなし。民その徳をしるし、敬い仰ぎ歓呼す。良民功を刻みこれを通行する道に建つ。
 明治23年8月   雪山 木村 発  撰文
                (号を雪山 名を発 撰文=文章を作る)

「史談会 一里塚11号 岩宮佳朗氏の読み下し文を指導を受け更に訳文」



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きました。
 この様な印刷物の種になるお話や、資料・写真がありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘ください。

(写真 西森秀喜、文 山田治信 )


  • 銀山昔日 第二編 郷土読本(下箒の修道碑)太田虎一著より
       生野町文化財委員会編集 昭和58年3月31日教育委員会発行
  • 一里塚11号  生野の石碑  岩宮佳朗著より
       平成18年3月15日 生野銀山史談会 発行




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このページは、ワード文書としてA4用紙4ページにまとめられた「新町歴史散歩No.8」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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