奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/9/22】

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山田治信氏の新町歴史散歩 19

平成24(2012)年9月

官民挙げた山神祭


山神祭は、鉱山町にとって山の繁栄を祈り、山の力を示す官民挙げた重要なお祭りでした。その内容を簡単に抜粋しながら、その中で新町とのかかわりが少しでも解ればと思います。

見石の引き物
右に写っている建物から見るとあまり古時代ではないが見石の引き物。旧鉱山正門前より下流に向かって撮影
写真 生野書院蔵 橋爪一夫氏提供

祭りは、天正15(1587)年に始まったと言われていますが(生野史神社仏閣編P50)、それから118年ほど後の、宝永2(1705)年若林勘兵衛山(新町の大山師菊屋勘兵衛の持ち山=白口)に、銀銅鉱石の良いものが沢山出たので見石を造って引き廻したとあり、これが見石(みいし)の始まりの様です。(P84)

その後、他の山も良い鉱石に当たったとか、御所務山になったとか、その時景気の良い山が見石を出し、山神祭には1〜3台程度の見石が出ました。見石を引く時に歌う木遣歌
(きやりうた)が、若林、千珠、緑青、久林、福寿、太盛、大亀、篤慶など山ごとに違う歌詞で残っています。(P84〜90)
大亀については、地役人の大塚重蔵芳賢の「大亀山祝言」という書(文政13=1830年のもの)が新町旧漆垣家に残っていたそうです。(P89)

見石は京都祇園祭りの鉾(ほこ)を小さくした様なもので、車を付けた引物の上に大きな亀を載せ、その亀の上に鉱石「山」に見立てた造り物を背負わせ、前に松・竹を後ろに大きな御幣を立て、見石台の周囲には金銀糸で縫いあげた立派な幕を垂らし、祇園ばやしの様な音頭で引いたと記されています(P99)。また見石の囃子方7人(すり鉦3、横笛3、太鼓1)のほか木遣りを歌う子供、綱引き20人程で「ならし」と言って予行演習を(8月1日)しました。

山神祭(8月9日)には、口・奥両山神の神輿並びに見石を出し、山師たちが付き添い、朝の出立ちには本膳(註)昼は丹波屋(山師足立太右衛門邸)で昼食をとり、午後奥方面を廻り2時頃帰って来て、夕飯は再び本膳が出ました。

綱引きなどその他の人たちには、大むすびに7種の煮〆を竹串に刺した弁当が出ました。当日の綱引きなど参加者は、多い時には1,000人ほどで、弁当運びに山口村など他町から多人数の応援が来ていました。これらの事が千珠山師大野友右衛門家(当時小野)の手記に残っていたとの事です。(P98〜99)

これを読んで、近代鉱山華やかな頃、山神社の神輿が神社出御(しゅつぎょ)の時にお神酒を戴き、本部正門で本部・太盛山の安全を祈願し、金香瀬坑口まで渡御(とぎょ)し、そこで酒・肴とにぎり飯で腹拵えをして帰って行く大行事であったことを思い出します。酒の入った神輿はよく元気を出し過ぎて、輿を傷め修理代が大変だった年もあったようですが、鉱山全盛時であったから出来たことです。
  (註)本膳とは 本膳・二の膳・三の膳をそろえた、正式な日本料理。

また、江戸時代の祭典情景を偲ぶ一端として書き添えたいと断片的に祭りの様子が書かれていますので(P101〜105)、紹介をしておきますが、ここにも新町が「出しもの」や「飾り物」を出して参加しています。

天明 8(1788)年
 神 輿、 御見石3つ出る
 口銀谷屋 ねり物2つ、笠ほこ5本
 いのの  太神楽
 新 町  軽尻ねり物3つ、笠7本
 奥銀屋  軽尻かさほこ5本
 小 野  軽尻かさほこ3本
 相 沢  ねり物1つ


寛政元(1789)年
 見 石  若林・千珠だけ出る
 奥山神  地歌舞伎
 奥銀谷屋 能舞
 小 野  俄(にわか)
 夕 ゼ  ねりもの
 相 沢  ねりもの
 いのの  太神楽
 口銀屋  ねりもの


文化 9(1812)年
 奥口山神 神  輿
 御見石  若林山・千珠山
 いのの  太神楽
 口銀屋  正宗鍛冶屋之段
 ひようたん町  徳蔵道行
 口下小路 ねり物からくり
 いのの町 ほてい
 夕ぜ町  おやま
 修験宝光院・南光院  貝吹知行院出る


文化10(1813)年
 奥口両山神 神 輿
 御見石   若林山・千珠山
 いのの   太神楽
 町々    軽尻ねり物
 口銀屋町 金紋五三の桐
 新  町  ねり物鶴の巣ごもり
 奥銀屋  鷲が猿をとる
 いのの町 口山神にて相撲取  作り物馬喰(ばくろう)

  (註)軽 尻=身軽な  貝吹=法螺貝を吹き鳴らすこと
      ねりもの=祭礼の時などに練り歩く踊り屋台仮装行列・山車の類・造り物など


この豪華な見石を幕末まで持続して出したのは、千珠山師大野友右衛門・太盛山師丹波屋足立太右衛門・若林山師太田治郎左衛門の3人でしたが、維新の政変で鉱山が政府に撤収されたためその機能を失い、以後それらの鉱区で働く人たちが各自一団となって行事を踏襲していましたが、時世に禍されてか明治の末に廃止となりました。想えばその絢爛な(けんらん=きらびやかで美しい)姿は郷土の文化遺産で、惜しい消滅の歴史であります。(P99)

見石の飾り幕
見石の飾り幕  シルバー生野展示品
昔は、現在の屋台の太鼓たたきが頭に被っている様なもの及び陣羽織様なものがあり運動会の応援団に使っていたことがありました。


明治に入っての山神祭の状況

山神社は明治24(1891)年冬、現在地に遷座されました。翌年の最初の山神祭には、
『各家うち揃い、門先の軒に短冊3枚を付けた松の小枝を垂らし、各自所有の提灯
  及び国旗を出すよう通知致しますのでもれの無いように。
  明治25年4月18日               生野町長  丸尾八右衛門 』
という町長からの通達が出され、19日は山神祭で神輿が御料局まで渡御し、町内総代・什長(じっちょう=現組長の様なもの)・重立(おもだち)有志はお供をするようにとあります。明治31年の生野鉱山側の資料では(P100〜101)神輿渡御中、各課付属以下かなりの人数がお供する様書き添えます。(P100)

生野山神祭次第

1、4月23日午前8時、奉幣使(ほうへいし)出発。
1、同日各職夫に酒肴料金5銭あて支給、ただし常員に限る。
1、午後零時、支配人以下付属(註=職長級)に至るまで本部に参集拝礼を終
   わってさらに本部に集合する。神輿引続き当山に渡御一同門前でお迎し
   祈祷式を執行、支配人以下順次拝礼後神輿を門外に奉送する。
1、当日服装は役員及び付属は礼服、羽織袴または洋服のこと。職夫は礼服
   または裸体を現わさない服装のこと。

 (註)奉幣使=神社に奉献する物(金品、物またはその目録)を届けるための使者。
       三菱時代には、神社側より鉱業所長宅にお迎えが行き、迎えの者は奉献物の箱を携えて
       所長の後に従って神社に到着、奉献物が供えられ奉幣使が着席すると式典が始まる。

余 興 順 序

1、4月24日午後山神社境内に於いて投餅(餅まき)のこと。
1、同23・24両日構内縦覧(自由にみること)のこと。
1、同23・24日、昼夜  真栄舍(芝居小屋)に於いて芝居縦覧のこと。
1、同24日山神社境内に於いて子供相撲縦覧のと。
1、役員及び付属家族芝居入場の時は、主人公の名札携帯のこと。
   但し桟敷に案内のこと。


紙製の神輿
新町が出した紙製の神輿(下箒で)
写真「生野の神輿考」西森秀喜著より

徳川、明治にわたる山神祭とそれに関わる神輿や見石のことを抜粋してみましたが、「生野の神輿考」という西森秀喜著の文が史談会一里塚第12号(平成19年3月)に載っています。それには生野の神輿と屋台について述べられています。また昭和3(1928)年の昭和天皇即位式典を祝した行事に新町より出した、ねり物が紹介されています。そのものは、昔新町在住の故安積春吉氏の手製で、ボール紙に金銀などのあでやかな色紙を貼りつけ組み上げた神輿だったと言うことです。新町下箒で撮影された写真が残っています。




✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。        (文責:山田治信)


  • 生野史4 神社仏閣編  文中の頁数は該当する神社仏閣編の頁
  • 一里塚11号 平成18年3月 生野銀山史談会発行  「生野の神輿考」西森秀喜著



(こぼれ話 家の床下が抜け水抜坑が現れた)


山神祭や見石などお祭りのことを書いたこの項に、こんな話を持ってくるのは場違いで、本来No.14「町の下を横断する鉱脈」のところで記せばよいのでしょうが、そこではこの事実があまりにも現実感をあたえ、危険とか恐怖とかを与えてはいけませんし、またその項は頁数が多いのでここに持ってきました。

私はいつも通り二階で寝ていました。夜中ミシミシという軋む音がして目が覚め、電気を点けてみると、部屋の片隅が少し下がっています。何事だろうと階下に降りようと階段を降りかけたのですが、階段も傾いて少しおかしいのです。階下では皆が起き出しており、柱の1か所が下がっていました。隣家との間にある小さい排水溝周辺が陥没し、大きな穴が開いて空洞になっており、家の中の土間は表面のコンクリートでようやく保たれていました。

そこは伯母の家で、伯母は少し前から水が「ポチャ ポチャ」と落ちる音がするので、何だろう何処だろうと思っていたようですが、排水溝のあたりが陥没して、水が地下に落ちていたのです。伯母はこの下に坑道があるのだと言っており、早速鉱山に話をすると、当時の採鉱課長(松尾高氏)が現場を見に来て、請負業者が工事にやって来ました。

業者は、穴が開いた所から採石を投入して埋めようとしましたが、伯母は坑道が走っているので、一か所を埋めて穴を塞いでも、また周辺が陥没するからと、その一直線上を掘るように言いました。工事が大きくなるので業者はためらっていましたが、鉱山と相談の上、伯母の主張どおり陥没個所から少し離れた個所を掘り始めました。

しかし掘っても掘っても何も出てきません。業者はもうこれでいいだろうと懇願するのですが、伯母はもう少し、もう少しと掘らせました。そして或る日、坑道が現れたのです。伯母の言い分に感心するとともに、工事の人たちもびっくりしていました。なぜ伯母が自信を持って掘り進めさせたのか解りませんが、昔からの言い伝えや、この周辺があちこちよく陥没していたからだと思います。その時、隣家の倉庫や向かいの家の立派な白壁の土蔵の中などにも陥没の個所が出来て、バラスによる埋め込みが行われました。

この坑道は、近代のものではなく、天受・漆谷の脈を掘った時代の水抜き坑として北側の山裾あたりから市川に向けて掘られたもので、現代の坑道よりかなり小さいものです。昔はもっと地表近くにあり、年代とともに地面が埋め立てられ現在の深さになったと思われますが、地上が安全だという深さではありません。

こんなことがあって何十年も経った頃、水道工事や下水道工事が始まると言うので、町が街中の陥没予想地帯を調査し始めました。私も見解を求められました。

(これは編者本人の実体験談です。  山田治信)






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このページは、ワード文書としてA4用紙5ページにまとめられた「新町歴史散歩No.19」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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