奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/8/23】

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山田治信氏の新町歴史散歩 18 別編

平成24(2012)年8月

余部鉄橋と・・・


夏休みの餘部・玉音放送で突如終末

私は昭和20(1945)年8月15日敗戦の日を餘部(あまるべ=鉄橋)の村で迎えました。

余部鉄橋
餘部の鉄橋
手前の鉄骨の部分が古い橋の一部を残したもの、後の白い部分が最近できたコンクリートの橋

中学生は農家の手伝いで麦刈や、山の草刈り場の草を刈って運び下すなど勤労奉仕に忙しい日々でしたが、期末考査(テスト)も終わってようやく短い夏休みが貰えました。

友人が「俺の郷里に来ないか」という誘いに乗って行くことにしました。汽車のキップなど容易に手に入らない時代でしたが、友人のお父さんは国鉄の保線区の偉い人だったので何とかなりました。

途中竹野の浜によってみようと竹野駅で途中下車、徒歩で海岸に向かっていると、田圃の中に日本軍の飛行機が不時着したらしく放置されており、見張りもいないのでよじ登って銃座に入ると、機関銃も座っており弾も弾倉にあったので、記念の為に弾を1ケづつ持ち帰るため友人と一緒に弾を抜き取ろうと色々やってみましたが、弾は弾倉の中からベルトのように繋がっており外すことは出来ませんでした。

竹野浜は、今のように浜茶屋があって賑わっているわけではなく、海と砂浜があるだけでした。友人はその広い海岸線で、波がある所は海水が寄せてきているので安全で、波が無く静かなところは寄せた波が沖に引き返す所なので、沖に流され危険だと教えてくれました。

御崎灯台
日本で一番高い所にある餘部御崎灯台

そのあと竹野から餘部に向かいましたが当時餘部には駅が無く、手前の鎧(よろい)駅で降りて、山越えの遠まわりの道を行かなければならないので、近道に線路を歩くのが日常のようでした。鎧駅で降りてすぐに真暗なトンネルの中を歩きました。トンネルの中で汽車が来るとどうするのかと聞くと、浅いわずかな退避個所があって、そこに身を入れて列車をやり過ごすのだということでした。列車に乗って一番後ろのデッキから見ていると、列車が通ったあと側壁からパラパラと線路内に出てくる黒い影が見えるということでした。

トンネルを出ると直ぐ、かつて有名だった餘部の鉄橋です。鉄橋には線路の横に人が通れるくらいの狭い工事用通路があり、鉄橋の手すりを伝いながら渡りました。途中汽車と出遭うと鉄橋は大きく揺れ風圧に引きずりこまれそうになるので、列車に背を向け両手で手すりをしっかり握りしめて列車をやり過ごしました。鉄橋を渡りきり山の斜面に折れ曲がって付いている小道を下ると村でした。

村では御崎の灯台を見に行ったり、砂浜が無くて大きな石が波のたびにゴロゴロと転びまわる小さな浜で海水浴をしました。浅い所ではゴロゴロ転びまわる石に足をやられないように、急いで深い所に入ることが必要でした。

鎮魂碑
香住岡見公園の鎮魂碑(碑文概略)
日本に帰国する船団の護衛に向かう途中の、2隻の海防艦(乗組員合計400余名)が、昭和20年8月14日正午前、敵の潜水艦の魚雷攻撃をうけ撃沈し、香住町民の献身的な救出作業で、夕刻までに救助されたが、戦死者55名は艦とともに今も沖合に眠っている。

そんな風景に溶け込んでいたある日、突然重要な発表があると言うことで部落の畑の中の小さな広場に行くと、ラジオが置いてありやがて、「忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えて」という玉音(ぎょくおん)放送を聞きました。

友人の家に帰ると、占領軍が進駐してくるらしい、列車も完全に止まるらしい、など噂が飛び込んできて、列車が動いているうちにと私は直ちに身支度をし、またキップの手配をしてもらい一人生野に帰って来ました。

やや日がたって、餘部の友人から、沖で日本の海防艦が敵の潜水艦に撃沈され、元気なものは浜に泳ぎ着いたが、それから何日間かは浜に死体が打ち上げられたという連絡がありました。最近香住の岡見公園に孫を連れていった時、そこにこの時の殉難の碑があることを知りました。

(文・写真 山田治信)




戦勝の大行進  よみがえった韓国民謡

餘部から急きょ帰って来てから何日目だったか、夕刻、朝鮮の人たちが街を行進するらしいという話が伝わり、さあ何が起こるのだろうかと、人々は口には出さないけれど不安がっている様子がうかがえました。夜暗くなってから戸締りをして家の中にひそむようにして夜を迎えました。

そのうちに外が騒がしくなって、大勢の人が大声で叫びながらやって来ました。その叫びは、「チンガ チン チン ナァーレ」という叫びの繰り返しのように聞こえました。

大人たちが静かに家の中に居るようにと言うので、隙間から外をのぞくことも出来ませんでした。熱気に包まれた集団はやがて家の前を通り過ぎて行きました。後日になって聞いても、何事も無かったようです。

あれ以降永い間、あの叫びは何だったのだろう、あの行進は何だったのだろう、デモ行進なのか、確か少し明かりも見えた様にも思うし、と頭の隅にずっと残っていました。


平成23(2011)年6月、敗戦より66年目にその疑問を大阪に居る弟に話してみました。すると何日か後に、韓国人の金吉浩(キム キルホ)さんが調べてくれたと言って次の様な話が戻って来ました。

「チンガ チン チン ナァーレ」と聞こえたのは「クェチナ チン チン ナネ」と言う言葉で、韓国東南部の慶尚道地方の代表的な民謡で、「クェチナ チン チン ナネ」は、農樂(サムルノリ)で使われているクェンクァリ(大皿のような金属製のドラの様な鉦)の音の擬声音(音をまねて言葉とした語)でしられており、嬉しい時に一般的に歌われている民謡で、朝鮮人らは解放されたということで、その夜みんなが集まり歌いおどり行進したらしいと思われる、と嬉しい回答があり、次の様な歌詞も送られてきました。

サムルノリ クェンクァリ
農樂(サムルノリ)の一場面(写真:ウィキペディアより)
 
金さんが教えてくれたドラの様な鉦とはこれだろう(写真:ウィキペディアより)

民謡 「クェチナ チン チン ナネ



金吉浩(キム キルホ)さんから来たファックス

 空には 星も チョンチョン
 クェチナ チン チン ナネ

 行こう行こう 早く行こう
 クェチナ チン チン ナネ

 雨水(うすい)渡って 白露(はくろ)へ行こう
 クェチナ チン チン ナネ

 小川の川辺には 砂利も多い
 クェチナ チン チン ナネ

 暮らしには 言葉も多い
 クェチナ チン チン ナネ

 空に織機(はた)を置いて
 クェチナ チン チン ナネ

 鯉(さかな)を釣って 太鼓をたたく
 クェチナ チン チン ナネ

 正月で 十五夜に
 クェチナ チン チン ナネ

 八月で秋夕(しゅうせき)の日は 仲秋節(ちゅうしゅうせつ)
 クェチナ チン チン ナネ

 歳月は過ぎ去っても 悲しみだけが残り
 クェチナ チン チン ナネ
 (註)

  • 雨水(うすい)=二十四節気の一つ春、陽暦2月18日頃。
  • 白露(はくろ)=二十四節気の一つ秋。9月8日頃、この頃から秋気が次第に加わる。

なんと大らかな空間で、自然と人生を眺めた歌詞なんだろう、そして歴史の永さと土地の広大さを綴っている。怒りの行進ではなかったのだ、喜びの行進だったのだ。しかしその中に激しく強烈な意志表示を含めて。

またその後日、猪野々にあった連合軍捕虜の収容所に連合軍の爆撃機が飛んできて、狭い谷の上で胴体の腹の下をパカッと開けると、大量の落下傘が開いて物資が投下され、連合軍の圧倒的な戦力・物資力を見せつけられるという光景もありました。

(文・写真 山田治信)





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このページは、ワード文書としてA4用紙5ページにまとめられた「新町歴史散歩No.18 別編」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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