奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/10/23】

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山田治信氏の新町歴史散歩 20

平成24(2012)年10月

桐の木稲荷


天狗岩から煙突へ1
太盛の煙突
写真提供:橋爪一夫氏





天狗岩から煙突へ2
桐の木稲荷
天狗岩の麓  桐の木稲荷

坂町の道の登り下り、その一番高い所を昔「高ドッコ」と呼んだそうで、道路より少し高い所に鳥居と手水鉢石があって、新町西部(旧坂町)の小学生が集団登校するための集合場所でした。第2次大戦が終わりに近い昭和18(1943)年頃には、戦争に負けるとは夢にも思わず整列して軍歌を歌いながら登校しました。

その集合場所から急な道と石段を上がると桐の木稲荷が祀ってありました。社の右手裏に穴がありキツネが住んでいるという事で、穴の入口に油揚げを供えたりしましたがその穴も旧坑だったかも知れません。

桐の木稲荷とは付近に桐の木があったのでついた通称で、正式には「切抜(切抜き)稲荷神社」というのが正解で、次のような神様がお祭りしてあるという事です。
 祭 神   倉稲魂神 宇迦之御魂神(うかの みたまの かみ)
                  (うかとは食物・穀物)
    稲荷とは(稲成―いねなりの意味で衣食住、産業の神でもあるとのこと)

「切り抜き」とは、江戸時代に、この付近に鉱山稼働の箇所がが多く、それらの坑道の水抜き坑の貫通を機に一社を建立して、その付近の山の繁栄を祈願したのが始まりと言われています。水抜坑の跡も残っていると生野史に柏村氏が書いておられますが、それが何処なのか現在確認が出来ません。

その後見聞した資料によると、ここは「天授山=てんじゅやま」と云い新町坂の上間歩の総水抜き坑で、天受脈周辺にある多くの間歩の水抜き坑として掘られたもので、掘り進める途中では鉱石に当たる部分もあったようですが、特筆すべきは、紺青(こんじょう=鮮やかなあい色の絵の具)の原石に当たり、それを絵の具にするすべを知った者が無く、許可を得て京都の絵具屋に売り捌いたという変わり種の石に当たった話もありました。

手水鉢
稲荷の登り口にある手水鉢石
刻字は漱水(そうすい=すすぎ水)、明治41年6月

神戸大学大学院人文学研究科地域連携センターの「まちづくり地域歴史遺産活用講座」テキストに次の様なことも載っていました。

『由緒 文化年間(江戸時代1804〜1817)、新町字上山付近の鉱石の採掘盛んな頃、鉱山の切抜き坑道が成功したので、社殿を建て倉稲魂神を奉斉(ほうせい=おさめ奉る)しましたが神験(しんけん=神のききめ)(まこと)に尊きものがありました。明治維新後、採掘停止により社頭衰頽(すいたい)し、明治6(1873)年10月「村社」となり同34(1901)年大改修を加えて漸く昔の形を保ちました。(兵庫県神社誌下巻632頁)』

以上の文からも、地上から採掘した徳川時代から地下採掘の明治時代へと移行したことや、時の権力者や財力者を失うと神社・寺院がすたれていく様子がうかがえます。

現在の稲荷社の裏山や、右にあたる東側の谷には、多くの山(間歩=まぶ)があり、現代でも、この谷の入口には多くの捨石が堆積していましたが、今は草木の下になっています。以前谷に入ると陥没の跡らしいものが数多く見受けられました。

旧新町と坂町の境(公民館横の道)に、昔から大溝(おおみぞ)と呼ばれた大きな溝がありました。今は道路となってその下を流れていますが、非常に幅の広い溝の底にも石が敷き詰められている立派な溝でした。子供の頃ここだけ何故、場違いな立派な溝があるのだろうと不思議に思っていました。

それが今やっと解決しました。桐の木稲荷横の天授の総水抜き坑より流れ出る排水溝の末端なのだと推察出来ました。しかし桐の谷から公民館横まで、昔どの経路をたどって流れていたのかは解りません。近代の鉱山時代の排水溝ならたどれるのですが。



さて、稲荷社の裏山は木もない急峻な岩山で、「天狗岩」と呼んでいました(古書にも「天狗巌」とありその付近に火薬庫があった様です。(生野史鉱業編P67))。その岩山の至る所に狸掘り(たぬきぼり)と言うか、子供が一人入れるような穴があちこちに掘られていました。私たちの時代は戦時中なので、軍隊で戦車から身を隠したり、戦車をやり過ごして爆薬と共に戦車に身を投じたりする、タコつぼ(一人濠=ごう)を想像した遊びの一つの舞台でした。しかし中には底が解らないような穴もあり、そこは避けるようにしていました。確かにこの辺は、扇山から北西に向け天受ひが走っている所です。

この天狗岩から西に向かって山腹を伝って行き、盛徳地区(善谷寺の上)という富鉱帯の旧坑の上を横切ると、旧鉱山本部の上にある銅精錬時代の煙突に到達します。その煙突はカラミを積み上げて出来ており、煙突の下の方の堅いカラミに無理やり名前を刻み込んだら山腹横断の冒険は大成功でした。先輩たちの話によると、この煙突は以前もっと高かったようで、また戦争中には、この煙突を防空監視所に使ったようです。戦争中の防空監視所は、口銀谷の西山の山頂にもありました。

この桐の木稲荷裏の天狗岩から善谷寺の谷にかけては、堀跡だらけでかなり深い穴もあるのか、冬の寒い朝には、地中から出る温かい空気が冷やされて水蒸気となり、煙の様に空中に上がっていることがあります。

私たちが子供の頃は、桐の木稲荷を中心に西向きに太盛の煙突までと、東向きに旧学校上の一本松まで、実に広い大らかな遊びのホームグラウンドでした、「山ひる」がいる現在では、考えられない事です。

( 文 責  山田治信 )



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。

  • 生野史1 鉱業編 P46、生野史3 代官編 P390、生野史4 神社仏閣編 P215
  • 明治以降の生野鉱山史  金香瀬水抜き P97
  • 生野銀山史談会  一里塚7号「代官羽田正見の大切坑記」岩宮佳朗著
  • 「間歩の字付表・位置図」  山田定信・椿野兵馬 調査編集
  • 「まちづくり地域歴史遺産活用講座」テキスト  神戸大学大学院人文学研究科  地域連携センター



(こぼれ話 旧坑・水抜き坑)


1、裸幸兵衛(はだかこうべい)相沢稲荷霊験記

昔の間歩(坑道)は、地表や川底、谷底より上で開かれていました。それは地表や川底より深く入ると、排水が出来なくなるからでした。そのことは、新町周辺に散在する旧坑を見ても解ります。

しかし地表や川底より低い所で採掘しなくても、鉱脈を追って下向きに堀下がると、底に水が溜まります、また水脈にあたり湧水があった場合は坑道が水浸しになったり、またその水が周辺の坑道に流れ込み、広い地域で採掘が出来なくなるなど、採掘坑での水の処理は難題でした。「この地下水を如何に排水するかが、山師の腕の見せ所でした。」と岩宮佳朗著の大切坑記にも書かれています。

手水鉢
大用寺にある幸兵衛の墓
側面には功績が刻まれている。
山冨幸兵衛(寶岸道樹居士)

この水を抜くため掘られたのが水抜き坑です。水抜き坑には、一つの坑のための短い簡単なものや、周辺地域の坑の水をすべて集めて排出する大掛かりなものまでありました。いずれにしても、鉱石が出ないお金にならない坑道を掘るわけですからその費用が大変です。そこで度々代官所へ融資・援助を願い出ていたようです。

代官にも水抜きに理解を示した代官もありその書が残っており、一里塚7号平成12(2000)年発行で「代官羽田正見の大切坑記」岩宮佳朗著で紹介されています。大切坑とは、緑が丘集会所近くに出口があった水抜き坑で、500mにもおよぶ生野で最大級の水抜坑でした。(山田定信・椿野兵馬 調査編纂「間歩の字付表・位置付図」による)

また、シルバ−生野の入口の坑道は、元「大谷平(おおたにたいら)水抜」という水抜坑であったものを切拡げて現代の坑道にしたもので、途中小さな水抜き坑の跡が見られると記されています。(明治以降の生野鉱山史 P97)

近代でも、旧坑地帯で坑道を掘ると旧坑に突きあたる場合があり、その時旧坑に泥水や土砂が大量に溜まっていると、一挙に飛び出して命取りになる場合があり、岩盤を掘る鑿の音の響きが変わらないか、まだ大丈夫か一本深い孔を掘り、探りを入れてみるなど細心の注意を払ったものでした。

坑内出水事故について、小野には鉱山悲話が残っています。
小野の大山師大野友右衛門の山、大丸坑で旧坑に当たり水が突出して18名が死亡し、大野家の鉱山総責任者山留孝兵衛がその責任をとらされ、寒中裸体の晒刑(さらしけい)になったという伝説です。「裸幸兵衛相沢稲荷の霊験記=生野史鉱業編P46」

相沢稲荷 鉱山労働者を救う(神戸新聞Web News 但馬の説話探訪 2004/09/03より)
史跡・生野銀山に上がる坂の途中に、かつて「相沢町」という町があった。そこの住民たちは信仰心があつく、相沢稲荷を大切に祭っていたという。

文政12(1829)年12月7日、町の近くにあり相沢の人々が大勢働いていた大丸(だいまる)坑で事件が起こった。

坑内の手伝いをしていた少年が突然叫び出した。
「相沢が火事や! 家がみんな焼けてしまうぞ。早く上がって!」
相沢の人々は驚き、外に飛び出した。ところが町の方を眺めても煙ひとつ上がっていない。
役人に「寝ぼけるな! 早く持場に戻れ!」と一喝され、人々が引き返し始めたその時、不気味な地鳴りとともに、坑道から大量の濁水がすごい勢いで噴出してきたではないか。水はあっという間に坑内を満たし、大勢の死者を出した。しかし相沢の人々だけは全員助かることができた。

なぜ火事と言ったのか少年を問いつめたが、「白髪の老人が現れ『相沢が火事だから早く知らせてやれ』と言って姿を消した。」と泣きじゃくるばかり、大人たちは「相沢稲荷さんが助けてくださったに違いない。」「ありがたいこっちゃ。」と涙を流して喜んだと言う。

この話を、小野在住で幸兵衛の子孫に近い家系の人に聞くと、山冨幸兵衛は大野家の番頭で測量師であり、この事故の責任をとって、旧内山寺に2ヶ月間籠って悔い、亡くなった人の冥福を祈ったということです。幸兵衛は77才で亡くなり内山寺に葬られましたが、内山寺の廃寺にともない墓は大用寺に移されており、墓石にその功績が刻まれているとのことです。
「関連資料 生野史 代官編 第4節 生野代官17 川崎平右衛門 P390」


(参考)

  • 大丸坑(金香瀬鉱床群)=山師 大野友衛門(小野)、開坑 元文5(1740)年、出水事故 文政12(1829)年
  • 相沢町=相沢稲荷のあった相沢町は、明治22(1889)年の大洪水で殆どの民家が流出し、廃町に等しい状態であったものを、明治25(1892)年鉱業用地として買収され、金香瀬中央選鉱場が建設されました。この選鉱場は、現在のシルバー生野へ登る道路の下になっています。
    相沢町は、金香瀬坑口付近より河原町稲荷付近に至る谷側に沿ってあった集落です。

2、旧坑と「こうもり」
或る日の夕刻帰宅し、子供は何処に行ったのかと聞くと『友達と「こうもり」を取りに行くと言って出て行った』という返事でした。私は慌てました、私の頭の中は「こうもりイコール旧坑」だったからです。一緒に行ったという友達の家に連絡しても「旧坑に行った」ことを予想している人はありませんでした。事情を説明し、皆で慌て廻って竹原方面に探しに向かっていると、途中帰って来る子供たちと出会いほっとしました。竹原の旧坑に行ったのですが、あまり気持ちがいいものではなく、「こうもり」もいそうにないので、深く入らずに帰って来たと言うことでした。よかった、よかった。

私の「こうもりイコール旧坑」ということは、どこから生まれたのでしょうか。

採鉱課に試推・調査・測量という係りがあり、それはやがて地質課になりました。試推はボーリング、測量は文字の通り、調査は坑道の岩石のサンプルをとり分析へ出し、岩石の質や鉱脈の変化の状況を記録しました。

この人たちは旧坑にも時々調査に入りました。その時に「こうもり」を捕まえポケットに入れて持帰り、焼き鳥にするんだと冗談なのか本当なのか言っていました。皮と筋と骨ばかりの様な肉の付かない、可愛いようなグロテスクの様な小さなねずみ状の動物で、手のひらに中に入る位のこの小動物に、唯一小さい胸筋が左右にあり、それが焼き鳥に出来ると言うのですが、これも本当か嘘か?

「こうもりイコール旧坑」「旧坑の蝙蝠イコール竹原野鷺(さぎ)若坑」という私の頭の中のルーツはここからです。 (文 編者)
  (註)こうもり=ネズミに似た鳥のように空を飛ぶ哺乳動物





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このページは、ワード文書としてA4用紙6ページにまとめられた「新町歴史散歩No.20」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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