奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2011/7/12】

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山田治信氏の新町歴史散歩 5

平成23(2011)年7月

大坂冬の陣に参加した奥地区の代表・鉱夫たち

銀山独特の町役名

生野銀山町は古くから幕府直轄の地として代官所を置き、町民を治めるための町役人を置いていました。町役は他の村々の様に、庄屋、名主の呼び名を取らず年寄、加奉(かぶ)、年行事等と云い、その退任については名望家、山師等を推し、その殆どが世襲でした。

なお、今日生野町を構成している森垣村、真弓村、円山村、竹原野村、上生野村、黒川村などでは村役人として、他の地域と同じ庄屋、年寄、百姓代を選出していました。


  生野銀山町の町役

銀山町名口銀屋町猪野々町新 町奥銀屋町小野町相沢町白口町
町役の名年寄年寄加奉加奉加奉加奉年行事
定 員213〜422〜313

  (記載されている書籍・年代によって、人数に違いが見うけられます。)


  • (註)
  • ✽江戸時代には、奥銀谷、口銀谷は「奥銀屋」「口銀屋」と書いたものが多いと言われています。
  • ✽銀屋(かなや)とは、銀銅を採掘または精錬する家で、鉱山業者の町という意味です。
  • ✽猪野々町とは、現代の猪野々ではなく鉱山本部周辺の昔の猪野々町をさします。
  • ✽年寄とは、町奉行の下に属して、上からのお達しを伝え、税を集めて納める事をつかさどる役です。
大坂のイメージ

■加  奉
この名称は、生野独特のもので、銀山旧記によれば、慶長19(1614)年大阪冬の陣に生野代官間宮殿が、百余人の坑夫を連れて行き、堅城大阪城の外堀の水抜き工事に取り掛かりました。間宮代官は途中陣中にて39歳で没しましたが、後に講和条件として堀を埋める事にも繋がり、落城に大きく貢献しました。この大作戦に、代官に従って指揮にあたった奥地域の役員は、従来呼び名を地親(じおや)と呼んでいましたが、奉行に付き従いこの工事(作戦)に加わりましたので、この功により「加奉行(かぶぎょう)」と呼ぶようにと沙汰がありました。しかし加奉行とは畏れ多いと謙遜し「加奉」と唱えるようになりました。

【これらのことを書いた代官の申渡状は、万治元(1660)年2月の奥銀屋大火で焼失しましたが、新町の加奉 杢右衛門(新町藤垣家の祖)が控を持っていたので、代々代官にその由来を申し伝えたようです。】

また大坂城、外堀の内、西横堀、道頓堀、長堀の三か所の町名に水抜き御用に手柄のあった奥地区代表の名前が付けられました。

大坂の町名に残った奥地区代表の名(平成19年一里塚12号 佐藤文夫著)
  小 野  藤右衛門、平右衛門、権右衛門、助右衛門
  新 町  次(治)郎兵衛、九郎右衛門、久左衛門、茂左衛門
  奥銀屋  吉左衛門、七郎右衛門、宗右衛門
  相 沢  孫左衛門

町名は、「天保期の大坂三郷」という天保14(1842)年の大坂の地図に書かれて実証されており、宗右衛門町は「宗右衛門町ブルース」で現在も有名です。



むくれた奥地区代表 代官にじんわりとねじ込む

後年、その謙遜していた加奉たちも怒ったことがありました。それは奉行所からのお達しが、口銀屋の年寄を通して奥地区の加奉に伝えられるようになったからです。享保5(1720)年12月、奥地区の代表(加奉)たちは、奉行所に次のような申し入れを行いました。


『奥町加奉は、他の年寄りとは異なって、祖先の功労を(大坂冬の陣のこと)誇りとしていましたが、このたび御用向きの諸事項を、口銀屋年寄りを通じて申し伝えられました。奥辺之儀(おくべのぎ=奥地区)は、山で働く人々が諸国より入り込んでおり、それを威光でまとめ治めていますのに、口銀屋年寄の触下(ふれした=もう一つ下の段階でおふれを受け取ること)の様になっています。今後は私どもより2人ずつ月当番をきめて、御用向きを承り入念に相勤めますので、仰せつけ下されば有難く存じます。』と相沢町1人、小野町4名、奥銀屋町2名、新町6名の地区の顔役が連名で、生野奉行所にやんわりとねじ込んだ願いごとの事が残っています。



銀山大火・新町大火  火と水に悩まされた昔

奥地区の代表が役所に苦情を申し立てたのが享保5(1720)年でした。それをさかのぼること16年の宝永元(1704)年には、銀山大火という大火事が起こっています。口銀屋の山師三坂藤左衛門が、24か所の山が奉行山になったお祝いをしたところ失火、口銀屋町より竹原野まで焼失しています。翌年宝永2(1705)年には新町の大山師 菊屋勘兵衛の若林山が大盛りとなり、奉行所指定の山(御所務山)となった頃です。

明和6(1769)年には、新町の大火が書かれています。
『12月9日夜午前0時頃、新町の加奉、勘兵衛組下、津村子屋(つむらこや)徳右衛門なばや(銀銅吹分場)より出火、川手通、西下側、上町筋山手、奥銀屋町下筋は大橋まで、上町の山手など、680軒1,500世帯のほかに寺6か寺、山伏1軒類焼、この年天気良く9日夜午前0時より10日朝午前6時まで焼ける。翌11日より大雪降り出す。』と書かれており、新町を火元として新町、奥銀谷、さては小野にまで至る大きな火事であったことが窺われます。

焼けた6ケ寺とは何処なのだろうか、生野史神社仏閣編に新町大火により焼失と書かれているのは(廃)仙遊寺、本来寺、(廃)西寶寺、(廃)神宮寺、の4ケ寺ですがあとの2ケ寺は、場所的に善谷寺、唯念寺、漆谷庵、大用寺などが考えられますが大用寺は翌年奥銀谷の寺町と共に広く焼けたことが記されていますので、その時は、現在の場所には無かったものと思われます。

この様に古い記録には、たび重なる火事と洪水による橋や道路の流失が記され、人力にしか頼れない時代の苦難が偲ばれます。

また、明治22(1889)年の大洪水の時、新町・奥銀谷の下町が浸水し、危険に瀕したため、竹原の人たちが応援に駆けつけていましたが、石淵の二つの橋(石淵手前で対岸へ渡り、その奥で再び竹原野側の対岸へ渡る)が流失し帰れなくなったため、矢文で連絡を取り合ったという話も残っています。

  • ✽矢文=昔、矢などに結び付けて飛ばした手紙。


✽本篇は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きました。
 この様な印刷物の種になるお話や、資料・写真がありましたら教えて下さい。
 なお間違いがありましたらご指摘ください。

(写真・文責 山田治信)

  • 生野史  代官編  生野銀山町の町役(P31)/生野奉行(P239)/聚落の名の起源 字の名称(P95)
  • 銀山昔日 第二編郷土読本 太田虎一著  五 大阪城冬の陣 間宮新左衛門と生野銀掘
  • 生野史談会 一里塚2号 町の制度と庁舎の変遷について 桐山六郎著
  •     〃    12号 大阪のど真中に町名を残した銀山の加奉たち 佐藤文夫著
  • 明治以降の生野鉱山史  第2章官営時代 第2節の13(P85)
  • 史料拾遺銀山記 第33輯  宝永元(1704)年、明和(176)年の項




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このページは、ワード文書としてA4用紙4ページにまとめられた「新町歴史散歩No.5」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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