奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/4/21】

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山田治信氏の新町歴史散歩 14

平成24(2012)年4月

交差して横断する鉱脈

先に、電車道(トロッコ道)について御案内し、そこで新町のトロッコ橋についても少しふれました。(新町バス停付近、消防水利の標識がある場所)
この久篤橋(きゅうとく橋)対岸の
  上流側に久林ひ[金+通](ひさばやしひ)
  下流側に緑珠ひ(りょくじゅひ、旧称篤行(とくこう)ひ)
の旧採掘跡があり現存しています。橋も久林、篤行両ひ の名をとって久篤橋(きゅうとく橋)と名付けられました。

この大きな二つの鉱脈は、新町の中ほどで地下にもぐり交叉して町と川を横断しています。横断箇所から先、太盛側は脈の名前が変わります。
"久林ひ"は → "天受ひ"。"緑珠ひ"は → "漆谷ひ"となります。いずれも太盛脈群の主要な鉱脈で閉山まで稼行していました。

天受ひ と久林ひ は
市川を挟んで脈名を異にしていますが本来同一脈で、太盛本ひ と太盛奥ひの会合点(この地区を盛徳地区という=善谷寺の谷)を西端とし新町市街地の地下に潜り、市川を横断して久林ひとなり延長1.3km、脈巾最大4m、平均2mで南は扇山の山塊に没します。

鉱床分布図
生野鉱山鉱床分布図  P26 より転写
緑珠掘り跡
川下側の緑珠掘り跡
 上下に大きな口を開けている

"天受ひ"は、幕政末期に近い天保8(1837)年御所務山[✽]格となっているところからみて、古い時代から採掘が行われ徳川末期に繁栄したことが窺われます。

  • ✽御所務山(ごしょむやま)=良い鉱石が沢山出て、役人が常時詰めて監督、監視している山。

"久林ひ" は、市川の川並より上部は幕府時代の堀跡で、近年は川並以下の採掘が行われました。地表は市街地を挟んで脈の名称を異にしていますが、下部では天受ひ として同名で稼行され、最下底は15番坑まで開発されています。

漆谷(うるしたに)、緑珠の両ひ
もまた同一脈で新町地下で"天受ひ"と交叉し、北部を"漆谷ひ"市川より南を"緑珠ひ(旧称篤行ひ)"と云い、"漆谷ひ"は新町本来寺裏鷺林(さぎばやし)坑より薬師谷(大用寺横の谷)の西斜面を縦走し、漆谷を横切り太盛の山塊に入ります。"緑珠ひ"は市川南岸(左岸)より南に延び扇山連峰に潜入しています。漆谷・緑珠両脈あわせて長さ1,300m、脈巾は0.5〜3mあります。

川向下流側に口を開けている緑珠の堀跡は、幕末頃のものですが、昭和13(1938)年その直下に偶然300mにおよぶ富鉱帯を発見しました。地表が採掘されてから100年も経っていました。『また緑珠ひ で特筆すべきは、下部13番坑付近で自然金を産したことで、銅鉱脈としては稀(まれ)な現象である。』とされています。

久林坑跡
 下流側(画面右):閉塞された久林坑
 上流側(画面左):ポッカリ口を開けた竪穴

天受ひ(含久林)・緑珠ひ とも、太盛脈群では最も深い15番坑まで稼行しています。15番坑とは、ほぼ海面のレベルに近く、生野の地表からは約300m程掘り下がったことになります。
  (註)金香瀬鉱脈群では、最下底は海面下500m位まで掘り下がっています。



不気味だった六鋪(ろくしき)周辺で作業再開

「以下 編者記」
対岸の上流側久林ひ の旧坑口の傍に、近年になって竪穴を掘り上がり、坑内に通じる口を造り、製錬のカラミ(水砕した砂粒状のもの)をトラックで運んで落とし、そのカラミを下で抜き取って緑珠ひ の採掘後の空洞に充填しました。この竪穴は今もぽっかり口を開けています。

坑内にカラミやサンドスライム(廃泥)を充填する採掘法は、昭和30(1955)年頃より始められた(生野鉱山史)となっていますので、かなり近い年代のことです。パイプで送られてくる選鉱の廃泥の充填は引続き行われましたが、この竪穴より落としていた精錬のカラミは、角が立っており坑内作業員の靴の中に入って、皮膚に刺さるので不評で、早晩中止されました。

この久林坑は、昔、六人の死者が出て、それ以来使われなくなり、世間では六鋪(ろくしき/鋪=坑道のこと)と恐れて呼んでいたという話を子供の頃古老からきいており、(真偽のほどは不明)煉瓦で巻かれ、半分ほど土に埋まった状態の坑口を思い出し、その様な所で作業が再開されたことに、不気味さを感じた当時のことを思い浮かべます。今は煉瓦で巻いた坑口に、さらに石を積み上げて閉塞されています。

久林と緑珠の中間に久篤橋があり、その橋のすぐ右に急な谷があり、その上の方にかなりの堀跡(緑珠)があり、沢山の捨石が流れるように崩れ出ていましたが、今では草木が茂ってその捨石の状況を見る事は出来ません。



坑口を冷蔵庫代わりに

北西の山側では、本来寺本堂の真裏に天井まで土砂に埋まった坑道が2つあって、昔の地並みは現在よりかなり低かった事を教えてくれました。そのほかに新町屋台庫(古い方)裏には、通気用の坑道が閉山まで口を開けていました。

本来寺裏の坑口跡-1 本来寺裏の坑口跡-2
 北側の山肌に残る堀跡
  本来寺・旧学校裏

戦前冷蔵庫が無い頃、近所の人たちがこの坑道を少し入った所に、金網を張り戸別に仕切られた戸棚を造り、物を冷やすのに利用していました。また戦時中は付近の人の防空壕としての役割も担っていました。両坑口とも近年の急傾斜地崩落防止柵工事によりその下に埋まりましたが、それとは別に、現在もその周辺に2、3の堀跡も見えます。これらの坑道、堀跡のどれが前記 漆谷ひ に至る鷺林坑なのかは承知していません。

新町屋台庫裏にあった通気坑道の話をしましたが、生野の鉱山地域では、金香瀬地区、太盛地区、白口地区、竹原野地区、青草地区などあちこちに通気のための坑道が確保され、その坑道は昔の小さい穴ではなく近代の1.8m×1.6mに近い坑道でした。特に白口(若林坑)は、その坑道維持のために専門の作業員が常駐しており、坑道のずっと奥から梯子を10何丁も下りると、金香瀬の旧採鉱三区(蟹谷)にたどり着けました。

この通気坑道とは規模や性格が違いますが、古い時代にも、明り取りに燃やす油の煤(すす)や煙を逃がすための穴を掘り、その穴を「風廻し、煙出し、尺八」などと云ったそうです。(旧時代の鉱山用語によります)



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。 ( 写真・文 山田治信 )


  • 明治以降の生野鉱山史  藤原寅勝著 昭和63年3月1日生野町教育委員会発行
      官営時代  地質鉱床P36  昭和後期主要鉱脈の開発状況P417
      補章 主要鉱脈の開発概況と竪坑  P422〜423
  • 生 野 史1  鉱 業 編  旧時代の鉱山用語 P4



(こぼれ話 見えない地下の跡)


1、地表に迫る採掘跡
或る日、採鉱課長につぐ区長と言う肩書きの方から、仕事の応援を頼まれました。頼まれた仕事は、緑珠ひ の採堀跡に製錬の滓(かす=カラミ)を充填するための工事費用を、別途に本社から貰うための申請書の作成でした。

申請の理由に眼をやると、採掘跡が地表?mに迫っているため、早急に坑内充填が必要だと書かれていました。私は驚いて、「こんなに迫っているのですか」と聞くと「こう書かないと認めてくれないから」と温和なその方は笑っていました。これが認められて、前記市川対岸の堀上がりなどの工事が始まりました。

これまでも町の中で地表が陥没する箇所がありましたが、ずっと昔の時代の小さな水抜き坑道が、川に向かって地表近くを走っているための様です。大規模な陥没は、山の中か白口地区で起きていたようです。


2、発破の音・山はねの響き
秋の夜長か、冬の静かな夜の10時頃、二の方の発破の音が一つから三つ、かすかに聞こえてきます。(場所によって)「発破の音がした、もう寝なくては」と云ったものです。これは、太盛鉱脈群(久林・天受、緑珠・漆谷)の現象です。

閉山に近い頃になって「山はね」が発生し出しました。深部の岩盤に坑道を掘って空洞を作ったため、均衡を保っていた地殻(岩盤)の圧力が突出し、坑道が大きく食い違い崩れる現象です。夜中の発破の音はかすかな音だけで、限られた場所でしか聞こえませんが、「山はね」は奥地区の広い範囲に大きな音と響きが伝わります、地震の様ですが、地震と違い揺れず音と響きはドンと一回です。「ドン」とくると非常招集がかかるのではと心構えしたものです。これは金香瀬鉱脈群の現象です。


3、緑珠(りょくじゅ)旧坑が炎上

緑珠掘跡上部の穴
火と煙を吐き出した緑珠掘跡上部の穴

新町川向うの下流側で、上下にポッカリ口を開けているのが緑珠だとお知らせしました。その緑珠の昔の古い堀跡から炎と煙が噴き出しました。 火事です。 坑内では、一酸化炭素が一番怖く中には入れません、外から水を注ぎ込むより方法がありませんでした。一度熱せられた岩盤はなかなか冷えません。注水した水が何時までも水蒸気を吐きだし続けました。鉱山の特設消防隊と猪野々・扇山社宅の自治消防隊が消火にあたりました。

近年ほとんど忘れ去られた様な岩穴の中の火災に、「なぜ?」という人ばかりでした。恐らく旧坑などという事を知らない、他所から来た人の焚き火の後の不始末だろうと言うことになりました。昭和30年代のことだったでしょうか。

鉱脈の採掘跡

4、忘れていた地下を横断する長大坑道
街を川を交叉して横断する二つの鉱脈のお話をしましたが、現代もう一つ地下を横断しているものを忘れていました。それは、金香瀬鉱脈群と太盛鉱脈群を繋ぐ大きな長い坑道、5番送鉱坑道です。

  • ✽送鉱坑道=鉱石を運ぶ坑道。
  • ✽5番=坑内のレベルを示す、海抜約250m、地表下約70m〜75m)

この坑道は、最初排水坑として金香瀬地区と太盛地区を結び、円山疏水坑に排水するため堀進められて、金香瀬と太盛が貫通したのが明治41(1908)年で、円山疏水坑に繋がったのは明治43(1910)年です。その坑道を切り拡げて電車軌道の坑道にしたのが大正4(1915)年でした。(明治以降の鉱山史)

近年は、金香瀬の採掘地域を1区、2区、3区(3区は白口方面及び更に南西)と区域を分割して管理操業していました。これらの地域の鉱石を集めて太盛地区に運び、地上に上げて選鉱に運び出す鉱石運搬の大動脈でした。

普通の坑道は、6キロか10キロ(m当たり重量)のレ−ルが敷いてあり、2トンのバッテリ−機関車を使っていましたが、この坑道は、15キロのレ−ルが敷設してあり、脈に沿ってカ−ブの多い一般の坑道とは違い、直線で最短距離を結び、4トンのトロリ−(架線)機関車が、1トンの鉱石を積んだ鉱車を大量に繋いで、かなりの速度で走っていました。この鉱石輸送を担当する地区を4区または送鉱区と呼びました。

私もこの坑道を歩いたことがあります。かなり遠くから電車が来る音が聞こえてくると、坑道のやや広い所を見つけて身をかわします。轟音が近づいて目の前をゴウゴウと音を響かせて通る列車に、体を引き込まれそうになりながら山は生きていると感じたものです。この金香瀬と太盛を唯一連結する坑道は、閉山で坑内を水没させるとき途中で閉塞し、金香瀬の水は市川へ、太盛の水は円山川へ別々に排水する方法がとられました。

( 文   編者 )


〔 緑珠・久林・久篤橋  付録 〕

後日、緑珠や久林や久篤橋が、古絵図にも画かれていることが解りましたので、追加して掲載しました。絵図は生野銀山写真集に掲載されている「大送水路図」で明治2年頃の作と推定されています。
    発行:生野町公民館/編集:生野の歴史をつなぐ会/編集責任者:杉浦健夫

絵図

市街地に近い天受ひの高品位鉱

久林ひ は川や市街地の下を潜って天受ひ と名を変え本来寺裏に顔を出し、桐の木稲荷裏の天狗岩方向に走ります。この天受ひ について次のような記述があります。

「天受ひ の上部は銅品位高く、特に市街地に近い酸化帯は自然銅、赤銅鉱を交えた高品位鉱を産したと言われている。」(明治以降の生野鉱山史 P422)





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このページは、ワード文書としてA4用紙8ページにまとめられた「新町歴史散歩No.14」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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