奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/12/14】

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山田治信氏の新町歴史散歩 22

平成24(2012)年12月

新町、奥方面の入口下箒橋.久宝ダムに埋まった葛籠畑・銀脈


昔、口銀谷から新町・奥方面に行くには、下箒(したぼうき)で岩山が川にせり出しており、危険で通れませんでした。そのため猪野々町(現マテリアルテクノ)付近から桟橋で川を渡り、猪野々村葛籠畑(つづらばた=現久宝ダム下)を通り、さらに白口川、新町橋付近を渡っていました。

絵図
猪野々町(鉱山本部)方面から猪野々村つづら畑(久宝ダム下)に渡る桟橋
(出石町 稲毛氏所蔵線画の一部より)

その久宝、つづら畑とは、どんな所で、どのような変遷を辿ったのでしょうか。

久宝、つづら畑地帯は、川向うの太盛・古城山方面から延びてきた鉱脈、千荷ひ(せんがひ)が川を渡って久宝ひと名を変えて存在する銀脈地帯で、露頭が(鉱脈が地表に頭を出している所)発達しており、露天堀に近い状態で採掘が行われていたと思われます。

「生野銀山間歩字附表=寛政4年(1792)記」(生野史鉱業編P566)、「文書・地図・絵図にある旧坑・間歩の字附表 平成21年(2009)山田定信・椿野兵馬両氏調査編纂」これら二つの字附表(あざづけひょう)にも葛籠畑・久宝として色々の間歩の名が出ています。また稼ぎ山として「葛籠畑盛珠山(つづらばたせいじゅやま)」という山の名も出ています。(P51)

採堀場があった久宝の山肌、口銀谷〜奥方面への道があった山裾のつづら畑、そこが明治以降どう変わっていったのでしょうか。

字付表の図


別所家文書『猪野々村つづら畑荒地の件』

▪つづら畑の土地の開発を始める 明治5年(1872)畑地や田地に。
▪別所家から願い事の文書が出される 明治8年(1875)
『猪野々村内つづら畑荒地を、申年 明治5年(1872)より毎年徐々に開発して畑地を田地にしてきましたが、近くに間歩(やま=坑)があり土を取り除いた後は小石の原で、土砂や銀気(かなけ)が強くさらに悪水が流れるので、色々と丹精しても作物が出来ず、殊に昨年より当場所の近くに火薬庫が造られたので、堆肥とする草刈場も無く、作付けも出来ず大変難渋致しております。
先に年十五歩の冥加金(みょうがきん=雑税・保護に対する謝礼金)を十カ年間上納致しており、その間農作物が出来るようにご尽力賜りたく書面をもってお願い申し上げます。』(鉱業編P68 編者要約)

この願出文によると、明治5年(1872)から荒地を田畑にすることが始められたようですが、採掘跡で状況の悪い土地であり、採掘跡から流れ出る鉱水による被害や、火薬庫が移って来て土地が狭くなり、草刈り場が無くなったなど作業に支障をきたしたことがうかがえます。その後この地は次の様な展開をみせます。

久宝ダム−明治42年
久宝ダム明治42年(1909)4月28日-生野歴史つなぐ会編纂写真集「生野銀山」より
この頃廃滓はまだ久宝の山裾に堆積されている程度でした。左の川端に民家も見えます。

▪久宝2番坑開坑 明治34年(1901)
▪同坑採掘中止  明治42年(1909)
久宝は昔地表付近で採鉱が行われ、その後放置されていましたが、太盛本ひの産銀が少なくなったのを補うため、つづら畑上の久宝山肌に2番坑を開きました。しかし優勢であった銀脈も下部ではあまり良くなく、開坑後8年で採掘を中止しました。その頃だといわれる上の写真には、まだ民家が残っていますが山裾には廃泥の堆積が始まっています。

▪トロッコ道が本部まで延長  大正2年(1913)
久宝の下、つづら畑をトロッコ道が通ることになり現口猪野々の白口川にトロッコの橋が架かりましたが、その頃つづら橋はまだ架かっていません。(P221)

▪生野で最初の索道が久宝に架かる  大正6年(1917)
この時の索道はダムを造るためのものではなく、精錬の゚(からみ=かす)や選鉱の廃滓(はいさい)を山裾に運び上げるためのものでした。(P273)

その後大正15年(1926)には第2次の索道工事にかかり、翌昭和2年(1926)に完成しましたが、まだダム築堤のための索道ではありませんでした。一方山裾の廃泥は高さを増し川に流れだすので、石垣の上に土のうを積上げて流失を防いでいました。

久宝ダム−絵画の一部 鉄塔と運器
左:久宝ダム築堤中の索道と中継鉄塔(生野書院所蔵 絵画の一部より)
右:左の絵のダムの頂上にあるのと同じ鉄塔と搬器(大仙ダムのもの)。久宝ダムのものはもっと高い。

▪ダム建設を決定 昭和4年(1929)
久宝山裾の廃泥が多くなり川に流れだす状況となり、また鉱山本部周辺のズリ(捨石)捨場も限界に達したので、外壁に捨石を積上げその内側へ廃泥を貯め込むダムの建設を決め、索道建設に着手して翌5年竣工、初めてダム建設のための索道が架かり、本格的にダムの築堤が始まり、昭和12年(1937)大仙谷に移るまで7年間動いていました。

▪ダム裾の廃泥を被覆 昭和34年(1959)
久宝ダム裾に積上げた廃泥は永年放置したままでしたが、降雨のさい堆積物が流れ出し市川を汚染し、下流農民・漁業関係者からの苦情・鉱害補償費の増大などを懸念し、ダム裾2万平方米を厚さ60pの廃石で被覆しました。後にそこは運動場やテニスコートになりました。(鉱山史P316)

昭和40年(1965)に開鑿中の中央立坑が崩落、作業に従事していた組夫数名が埋没するという大きな事故があり、報道機関多数が現地に集まった時には報道のヘリコプターがダムの上を発着場にしたこともありました。

いま久宝ダムを見上げその下に眠った銀脈やつづら畑を、そしてそこで綴られた人の営みに思いを馳せるものです。

平成14年頃の久宝ダム
平成14年(2002)頃のダム。この上にヘリが降りた。(写真:橋爪一夫氏)

私たちの道は現代対岸に移りました。

久宝・葛籠畑の対岸今の国道429号線には、当時の千荷(せんが)ひ の旧坑が口を開けており「徳川時代の坑道」と標識があります。その少し下流の側溝の中にも、もう一つ坑口がありますが土砂が溜まっており見分けにくくなっています。前記坑道の標識の横に谷がありその谷に架かっているのが下箒橋です。通常つづら橋の存在に隠れて橋が有るのか無いのか見落としてしまいます。

前にも記しましたが、大正2(1913)年対岸にトロッコ橋が架かりましたが、その時まだつづら橋はなくて写真にも橋は写っていません。従ってつづら橋は、かなり新しい年代に架かったもの思いますが、最初に架かったのは何時なのか解りません。

ただ鉄筋コンクリート造りの橋ができたのは、昭和3(1928)年、工費5万5千円と生野町制65周年記念誌に記されています。

千荷(せんが)ひの旧坑
つづら橋、下箒橋の側に口を開けている徳川時代の坑道
 
下箒橋
下箒橋  青垣・生野の表示



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。(文責 山田治信)

  • 生野史1 鉱業編
  • 明治以降の生野鉱山史 藤原寅勝著
  • 「間歩の字附表」「生野銀山間歩位置図」 山田定信・椿野兵馬 調査・編纂
  • 生野町制65周年記念誌 昭和29年10月発行   資料提供 佐藤文夫氏




(こぼれ話 火薬庫への道・猪野々番外地)


『山沿いの道を通り抜けると、そこは番外地だった。番外地の左手の谷の上に火薬庫があった。』

つづら橋を渡って白口川に沿った道路を少し行くと、旧力泉寮の手前に近年立派になった猪野々橋があります。その手前で橋を渡らず右に、山裾を真直ぐ行く道がありました。それが火薬庫への道です。今は木が茂り途中崩れている所もありますが、以前幅は狭いが立派な道でした。この道を上り川向社宅と言われた土地の入口に出た所が、後で記す「猪野々番外地」です。

火薬庫への道
火薬庫への道の入り口
旧力泉寮前の橋を渡らず右折山沿いに。

番外地の右の谷を登ると火薬庫です。この火薬庫は、戦時中都会の空襲から火薬を守り、戦時中の鉱山の操業をストップさせないため、沢山の火薬を避難させて貯蔵してあったと言いますが、戦後私たちの時代には、使用していませんでした。小学校の時、冬雪が降ると猪野々の友達たちが、「家に帰ったら火薬庫へ行こう」とよく言っていて、この谷の道で橇(そり)滑りをするのを楽しみにしていました。

「猪野々番外地」は、昭和20(1945)年代半ば以降、いよいよ社宅が足らなくなって、前からあった猪野々川向社宅に続く下流側の山林を切り拓いて社宅用地としたもので、もともと鉱員社宅として建てたもののようですが、当時大学卒の新入社員が多く、また結婚ラッシュもあり、職員社宅に空舎がありませんでした。そんな状況の中で、大学卒の新婚一組が番外地に入居しました。

番外地辺り
火薬庫の下、番外地と名づけた辺り

新婚さんは美男美女で、番外地から猪野々橋に至る山裾の道(火薬庫への道)を、手をつないで歩いたのですが、現在のように木が茂っておらず川向うにある猪野々社宅や道路からはよく見えて、わいわい噂になりましたが本人たちは涼しい顔で、言う方が馬鹿らしいく誰もやがて言わなくなりました。

この社員は、かなり「やりて=遣り手」と言われ生野鉱山の古くからあった職務や賃金のあり方を新しく制度として作り替え、最後は三菱マテリアルの専務になりました。

偉くなって本社から生野に来た時も「俺は新婚当時、猪野々の番外地の社宅に入れられた。」と忘れもせずに話していました。しかし「番外地」という名は、後にも先にも他の人から聞いたことが無く、この人が最初に言いだして最後までこだわっていたものだと思います。なぜ番外地と云うのでしょうか。山林を切り開いた土地で宅地番が無かったのか。大学を卒業して颯爽と赴任し、結婚後の新生活を始めた地が、茶畑の職員社宅から一人離れた猪野々の鉱員社宅に入れられたので、「番外地」といったのか。

猪野々の谷と久宝ダム
猪野々の谷と久宝ダム  矢印が火薬庫への道。

火 薬 庫
ここまでに辿って来た生野史の中で、奥方面で新町桐の木稲荷付近の天狗岩下付近や、つづら畑に火薬庫があって、人々が危険だと立退きを望んだという記述に出会いましたが、生野では広く鉱脈や間歩が分布散在していたので、もっとあちこちに火薬庫があったと想像してもよいかと思います。

近代の採掘を支えた火薬は、金香瀬八長火薬庫(シルバーに登る道路の上の山腹に繰り抜いた地下火薬庫)、大谷筋火薬庫(現観光坑道の出口にあたる所)、太盛坑内の火薬庫に貯蔵されていました。

(文 編者)






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このページは、ワード文書としてA4用紙6ページにまとめられた「新町歴史散歩No.22」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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