奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2011/6/11(初出:2011/5/12)】

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山田治信氏の新町歴史散歩 4

平成23(2011)年6月

徳本上人名号碑

本来寺は、慶長7(1602)年 間宮新左衛門奉行の時に、圓空(えんくう)上人の開基で、本尊の阿弥陀如来と地蔵尊像が本堂に安置してあり、難産を逃れ霊験あらたかで腹帯の地蔵≠ニ言われていたと記されています。また本来寺と言えば、新町毘沙門天と言うことになりますが、他にも歴史を偲ぶものがあります。それは、徳本上人の遺徳を偲び、その恵みにあやかろうとして建てられた碑です。

南無阿弥陀仏の碑

『徳本上人については、銀山昔日の中に、太田虎一氏の文章が収録されていますが、源平合戦の「ひよどり越え」の戦いで有名な畠山重忠を祖先に持ち、自らは粗衣粗食で日夜「南無阿弥陀仏」を唱え、庶民にも分かりやすく仏法を説く徳の高いお坊さんであった。

紀年銘
写真:西森秀喜氏提供

ある時、西福寺のお坊さんが、生野銀山では坑内で用いる「さざえ殻」の油煙と狭い坑内で石の粉を吸い、たとえ健康な坑夫でも若死にするので何とかしたいと考え、当時高僧の誉れ高い徳本上人をお迎えし、追善供養をしようと考えた。その時期については、生野史神社仏閣編には、地役人木村松三郎日記に、文化8(1811)年9月23日に生野へ来られ、東恩寺(現東西寺)へ3日間逗留、奥の善谷寺(移転し猪野々に墓地あり)へ3日間逗留されたと記している。

その間、おそらく追善法要や説法が何回か行われ、有難く分かりやすい上人の説法に、山主や庶民の多くは感激したであろうと想像する。それが碑(徳本上人名号碑)造立へのきっかけではないか。』
(一里塚14号 徳本上人名号碑 椿野兵馬著より)


本谷庵名号碑
白口本谷庵 名号碑

この碑は、生野町内及び岩屋谷入口で12基あり文化8(1811)年から嘉永7(1854)年の43年間に建てられており、本来寺の碑は嘉永7、安政元(1854)年となっています。本来寺の末寺であった白口の(廃)本谷庵周辺の墓地にもあり、ここの碑は、文化14(1817)年11月建てられています。また猪野々の善谷寺墓地には願主 元雄で建立されたものがあります。(以上、前記椿野氏調査による)

この碑は、単に坑夫若死の供養のみならず、世情不安、銀山の盛衰など何かが起こると上人の高徳にすがり、神仏にすがって次々と造立されたものであろう。と椿野氏はむすばれています。

徳本上人の銘
名号碑に刻まれた徳本上人の銘

  • 【註】
  • ✽名 号=一般的には、仏・菩薩の名を名号という。浄土宗では、「南無阿弥陀仏」を六字の名号(みょうごう)という。
  • ✽南無阿弥陀仏=南無とは帰依することを意味し「阿弥陀仏に帰依する」という意味。
  • ✽徳本上人=和歌山県日高町が生んだ偉大な清貧の修業僧、その足跡は、名号碑として広く日本各地に残されています。
  • 以上、広辞苑・フリー百科事典ウイキペディアなどより。


話は変わりますが、本来寺は新町にとってもっと重要な役割を果たしていた時代がありました。それは先々代の啓善和尚の頃ですが、クラブ(現公民館)が無かった新町は、このお寺を借りて什長会(じっちょうかい=組長会)や区の各種会議を行っていました。啓善和尚も区の各種役員をやられました。

また、このお寺の裏には、扇山から川や街の下をくぐった二つの鉱脈、緑珠ひ、久林ひ が漆谷ひ、天受ひと名を変えて地上に現れ、鷺林間歩(さぎばやし まぶ)など旧時代の採掘跡もあります。閉山までは通気坑道も口を開けていましたが、近年の急傾斜地の崩落防止工事でその下に埋まってしまいました。

現在では、本来寺の建物の直ぐ裏の絶壁が堀跡ですが、こんなに寺と近接した所での採掘作業は出来ません。おそらく当時この辺は採掘のための用地であったと思われます。古絵図にも現本来寺あたりから桐の木稲荷辺りにかけては、そうではないかと思われる仕切られた用地が描かれており、これが一帯の鉱業用地だったようです。山を主体に考えると、こう考えるのが一番妥当なように思われます。



  • ✽本篇は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きました。
    この様な印刷物の種になるお話や、資料・写真がありましたら教えて下さい。
    なお間違いがありましたらご指摘ください。

(写真・文責 山田治信)

  • 銀山昔日 第二編郷土読本  太田虎一著  第八項、大塚重蔵芳賢(よしかた)
         昭和58年3月31日 生野町文化財委員会編集 教育委員会発行
  • 一里塚14号 徳本上人名号碑考  椿野兵馬著
         平成21年3月25日 生野銀山史談会発行
  • 生 野 史 4 神社仏閣編



( こぼれ話  本谷庵(白口) )

1、戦中の本谷庵
白口の本谷庵は、昔「上の庵」と「下の庵」があって、上の庵が焼失、その時救出された如来像が、下の庵に黒仏といって祀られていました。現在も小さなお堂にしっかりと祀られています。

黒仏
本 谷 庵 の 黒 仏

現在のお堂になる前の庵は、私たちには忘れられない存在です。小さいながらも道路側からお堂に入る立派な玄関があり、横手に日常出入りする勝手口があり、人が住む部屋には囲炉裏もありました。白口の谷では勤労奉仕や学徒動員という名で、生野中学校の生徒や生野高等女学校の生徒が山仕事をしていました。

谷の右岸では中学生が炭焼きと、炭に使った残りの細い木や枝を束(たば)にして焚き木(たきぎ)として街に負い出していました。谷の右岸というのは乙女の滝のすぐ下流、道路そばの断崖絶壁(現在道路がよく崩れる所)を梯子で登った所で、梯子では大勢の人数が登れないので、下流の谷からまわり道をして山に入っていました。そこには鉱山の古い排水坑もあり、三菱時代も保守確保されていました。

番所跡
猪野々の一番奥にある表示板

その時の山仕事の本拠地が本谷庵でした。上級生は炭釜の火を絶やさないよう、本谷庵に泊り込んでいました。食料が無い時代、米と味噌を百姓出身の生徒が持ち寄り、泊り込みの食料にしていました。

当日、体調不良や怪我をして山仕事が出来ない者は、軽作業と言って、白口川で「ごとんぼ」を釣り、串に刺して乾燥させ、泊まり込みの味噌汁の「だしじゃこ」の代用品を作りました。

谷の左岸では、女学生が木の枝で焚き木を作っていました。乙女の滝に水が流れ落ちる直前の所に3〜4本の丸太を渡して橋が造ってありました。横を見ると滝壺、足が震えたことでしょう。この橋を渡ってモンペ姿の乙女が、山から焚き木を背負って道路に出て来ていました。

これら中学生・女学生が薪を背負って通り抜けた猪野々。かって坑内の労働力の大半を支え、町会議員3名を出していたこの地域の大半が消えて、今は草の原となってしまいました。


猪野々の街並み
焚き木を背負って通り抜けた猪野々の街並み

2、戦後の本谷庵
戦後炭焼きや焚き木とりもなくなり、配属将校の姿もなく、その厳しい監視や叱責もなくなりました。

中学校には作畑の峠をこえ白口の谷を通り、徒歩で真弓の中学校へ通っている学生もいました。男子学生は、遠距離の徒歩通学で大変お腹が空きました。お腹が空いたと言っても戦後のこと何もなく、素人の宅でわずかに「ふかしたさつま芋」を売っておられるところがあり、毎日のように買食いをしていました。

その頃のある日、こんな噂が飛び込んで来ました。かって右岸と左岸で作業をしていた中学生と女学生が白口川の谷底に転げ落ちて重なりあったと言うのです。重なりあったのが本谷庵だというのです。

女学生は一つ年上のお姉さんで、淑やかにも派手にも見える不思議な雰囲気をもった噂の美人でした。その後二人が結ばれたということは聞きませんでした、若い男女のケガのような交わりだったのでしょうか。学校はまだ男女共学になる前のことでした。

それにしても本谷庵の黒仏さん≠ォっとこの二人の様子を見下ろしておられた筈です。「じっと黙って見つめておられたのですか。」いまお堂に立っておられる黒仏さんに聞いてみたいと思います。 名号「南無阿弥陀仏」。

中学生や女学生が焚き木を背負って通った猪野々の路に、今は散歩やウオーキングの人たちを見うけます。この道路には、白口線と云う白口向けの電話線と電灯線の電柱が建っています。その電柱には、白口線何番という白い番号札が貼ってあり、その札に「白口」と漢字で書いてあるものと、カタカナで「シロクチ」または「シラクチ」と書かれているものの三通りがあります。念の入ったところでは「シロクチ」と「シラクチ」と書いた両方二枚が貼ってある所もあります。
面白いです。 よく見つけましたね。 暇ですね。
最近のパソコンなどによる、字句の変換時に注意を怠ると見逃すミスと同じです。近頃テレビ画面の説明文にも字の訂正がよくありますね。

(文  編 者)


お知らせと訂正
4月の「新町歴史散歩No.1 お銀飛脚井筒屋」で木南弥一兵衛のお墓が多可郡加美町的場の金蔵寺にあると原文のまま記しましたが、読まれた方から、昭和46(1971)年10月遺族が姫路市方面に墓地を移されたという連絡を受けましたのでお知らせいたします。




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このページは、ワード文書としてA4用紙5ページにまとめられた「新町歴史散歩No.4」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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