奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/6/14】

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山田治信氏の新町歴史散歩 16

平成24(2012)年6月

毘沙門天


毘沙門天堂
新町区民が浄財を集め本来寺の元鐘付き堂を借りて建設した毘沙門天堂

『村落は田や畑があり里山があって集落が発生し、そこに神様がいるのが普通ですが、この岩ばかりの谷に村落ができたのはなぜだろう、それはひとえに銀脈があったからです。人々はそれを掘り糧をえて生活するために集まって集落をつくり、地下の財宝を守り人々の安穏を守るため神様が祭られた。』と柏村儀作さんは生野史に書いておられます。

生野では古い古い時代に人が住んだ痕跡はなく、遺跡も未だに発見されていません。

生野の山の始まりは大同2年(807年、平安前期)と言われていますが、それ以降どのように開かれていったのか、はっきり記したものはありませんが、発見された銀山に人が集まり集落をつくり、それらの人々の心の拠りどころとして信仰体を求めた、それが山神(さんじん)で、その本尊が毘沙門天でありました。

吊灯篭

天文11年(1542年、室町・戦国時代)になって、戦乱で衰微していた鉱山を再興しようと竹田の太田垣氏が再興を図りかけましたが、それを押しのけて出石の山名氏が出張って来て自領としました。天文22(1553)年、山名祐豊が更なる銀山の隆昌を祈願するため、別に大山祇(おおやまずみ)神社の分霊を移し社殿を新築し祀ったことで、[山神]が初めて「山神宮」または「山神社」と呼ばれるようになりました。古の山神とその後の山神宮は本尊を別にするわけです。山神は口と奥との二か所にあり、新町毘沙門天は奥山神の本尊でした。昔の神仏習合(しんぶつしゅうごう=会わせ祀る)時代には、神社に付いた神宮寺という寺があり、僧侶が神前で読経をして祭祀をおこなっておりました。奥山神にも付随した奥神宮寺があり、奥山神・奥神宮寺の場所も、最初は漆谷でしたが、その後新町二本松下(旧学校、現消防庫の所)さらに仙遊寺(廃)と移り、昭和39(1964)年新町区民の手で浄財を募り、本来寺境内にささやかなお堂を構え遷座し、遷座された7月19日を毎年祭典の日としてきました。

お堂には次のようなものが祀ってあります。
 毘沙門天像(奥山神本尊)
 不動明王像(奥神宮寺本尊)---文献にはありますが、像の所在は不明です。
 秋葉権現(秋葉神社の祭神)---白狐の上に立った秋葉三尺坊。
   奥山神、奥神宮寺どちらに祀られていたのか不明です。
 神輿尊体(蟹谷尊像)---木製、岩盤とそれに抱えられた仏像と蟹の彫刻品。
  下記墨書があります
   蟹谷山師 上山重良兵エ 天和2壬戌年(1682年)8月
   再興施主 猪野々町 若林山師 太田作兵衛義廣
       嘉永6丑年(1853年)8月  別當職 快良
 古鏡(柄鏡)3面---鋳込模様、鏡師の銘があります。
 鰐口(堂宇の鐘)
  銘記  奉掛 山神宮御宝前 安永6丁酉年(1777年)4月
      願 主  井瀬町(ゆうぜ町=小野) 九蔵・仙蔵・辰吉
      但馬国朝来郡生野銀山  奥神宮寺 現住探幽
 釣り燈籠  1対

銅鏡 鰐口
毘沙門天の主鏡。裏面。表は鏡面になっています。 新町毘沙門天堂の鰐口(鐘)。

 戸張(とばり=垂れ幕)  3垂れ
  奉 納 奥山神御宝前  千珠山師 大野友右衛門
              太盛山師 足立太右衛門
              若林山師 太田治郎左衛門
  ジ(とき) 文久3癸亥年3月良辰(吉日) 現住  快 良
        (1863年 生野義挙の年)

帳
戸張(とばり)。文久3年生野義挙の年に三大山師が奉納したもの。
 おみくじ筒(銅製)---真鍮の平板に精巧な刻印のある籤棒が入っています。

おみくじ
おみくじが入っている銅筒

以上の仏像、祭具には故事に因んだ作製奉献の年代が記されて貴重なものとなっています。

中でも神輿尊体は、延宝8(1680)年の山神祭(代官 酒井七郎左衛門定之の時)に、蟹谷(白口の間歩)の山師 上山重良兵ヱがわが山の繁栄を祈ったところ、翌日に良い鉱脈に当たったので、神の威光はあらたかであると喜び、その時ちょうど神輿を再興しようという話があったので「神をを載せる神輿は思う存分なものを造るように」と神宮寺の僧に申渡し、また鳥居の中に蟹の造り物を造った。という記述が生野史にあり、それらの史実を語る物として重要です。柄鏡(えかがみ)も「天下一」の銘があるか無いかで鏡の制作時代を知らせてくれますし、鰐口の銘にも昔の小野町の情景が浮びます。

また毘沙門天厨子(ずし)の前に垂れ下げられていたと言う戸帳(とばり)は、錦地の切地を2枚縫い合わせたもので、当時生野銀山三大山師といわれた人たちの寄進になるもので、時は幕末でありますが生野義挙≠フ突発するおよそ半年前で、『その敬虔さ(けいけん=神仏に謹んで仕える様)が窺われようかと思います。』と書かれています。「おみくじ」が入っている銅筒も表面に美しい模様が打ち出されており、筒の中の真鍮製の籤棒も両端を平らにし、奥の方は抜け落ちないように、先端は孔から出てきて見えるように当り番号と思われる漢数字が刻印されており、細工の細やかさに驚きます。

新町毘沙門天のことについては平成20年7月、生野史にある新町毘沙門天に関連する事を抜粋し「新町毘沙門天祠堂の中の歴史」いう小冊子を作ったこともありました。



尊体の謎

毘沙門天像
体内に古毘沙門天が納められているのではないかと言われる毘沙門天像。

柏村氏の銀山第一鎮守山神宮考(元生野町広報 偕和)「奥山神」をさらに辿ります。

(記述の問題点第一)奥山神の御本体(毘沙門天)の制作時代を明らかにする文献は、文化・文政・天保(1,804〜1,843年江戸後期)頃のものと思われるという記述が残っております。

それによると、本尊毘沙門天、脇侍ともに破損が甚だしいので、神宮寺住僧が地役人(大塚重)に相談し、大坂の仏師に依頼して再興しました。その時大塚は、今の御尊体は小仏であるから新しく大形にして、その胎内に元の尊像を入れてはという事で、この修復で一段大形となり、以前の像が胎内仏として秘められていることが想像されます。となっています。柏村氏は当時現地を見られ「本来寺の毘沙門天を、大ざっぱに調べてみましたが、古像が胎内仏として包蔵されているかどうかは、レントゲン撮影するほかありまあせんが、こうした伝承はそれなりに受け入れておいた方が無難であろうかと思います。」と記されていますが、重量もあり恐らく外観だけを見られたのだと思います。

神輿尊体
神輿尊体と言われる像
岩盤の中にいる蟹を出したもの。
神輿尊体墨書
蟹谷尊体台座及び厨子に書かれた墨書。

(記述の問題点第二)次に前記文章が書かれた以前の事実として、当時新町の某家に興味ある話題の秘仏一体が保管されており、黄金で出来て由緒深いものだと噂があり、ある機会に見せてもらうと、蟹谷山師重良兵エの銘記があり、重良兵エ寄進の神輿の装飾に取付けた蟹と岩山に安置する身長5.5cmほどの鋳造毘沙門天像と見受けられました。

左手に塔(仏骨を治める物)を持ち、右手に矛(ほこ)を持ち火炎輪宝光背(かえんりんほうこうはい)を配した憤怒の姿でありました。そして6cm角漆塗りの台座に置き、さらに檜作りの角厨子に納めてあります。幕末の嘉永6年(1853年)8月に、若林山師太田作兵衛義広が再興したとも書かれていますのでー部修理を加えたのかとも思われます。

さて現在のお堂に祀られている木造彩色の神輿尊体(蟹谷尊像)にも、同じ二つの年代の墨書があり、天和2年(1682年)は、山師重良兵ヱが良い鉱脈に当たった翌々年で、喜び勇んで神輿を寄進した史実と合致しますが、年代の墨書は、後の嘉永の修復時に同時に書かれたものでは無いかと柏村氏は記されています。

嘉永の修復に関わった山師太田作兵衛は、丹後屋という屋号で若林山を経営しており、文久3年の生野義挙の時には、志士たちがこの屋敷から代官所へ発進したことが知られており、幕末から維新までは銀山三大山師≠ニして自他ともに認めた人です。
(註)大山師丹後屋太田家の屋敷は、後に移築され鉱山長社宅となった建物です。

さて、現在堂にある岩窟形の中に蟹や仏像を抱きかかえた像は、蟹谷坑を象徴することは理解できますが、「神輿尊体」と名付けられているのは、なぜでしよう。

本来神輿には山神の本尊毘沙門天を戴くのが普通ですが、古の小像の毘沙門天と蟹谷の像を併せて神輿に載せたのか。

昔の毘沙門天の小像を新しい毘沙門天の胎内に納めた後、太田作兵衛が天和の重良兵ヱの史事にならって岩窟に仏像と蟹を抱えた像をつくり載せたのか。

胎内仏にしたというのは誤った記録で、胎内に入れるのは止めて、この蟹谷尊体を神輿に載せたのか。想像や錯覚に悩まされるものです。と柏村氏の記述は終わります。

『後年、明治維新の神仏分離令により山神の本尊毘沙門天は神宮寺に移し、山神社(宮)の御神体は金山毘古命(かなやまひこのみこと)一つとして祭祀されることになりました。』


ベイ

  左の字は、毘沙門さんの印(しるし)
    梵字(ぼんじ=べい)  古代インド語の文字、毘沙門天を表す。
    書 岩宮佳朗氏



鏡
奉納された柄鏡、その中の一つ。

ここから前記記述と現状を比べた疑問点を私なりに挙げて見たいと思います。

(第1の疑問)
かって某家にあったという黄金の毘沙門天像は、大きさからみても毘沙門天の胎内像であったのではないかと思われます。現在の毘沙門天像には、像の裏が開く様になっており、中は空洞ですが何も入っていません。昔入っていた黄金の小毘沙門天は何処にいったのでしょうか。

(第2の疑問)
現在の木造蟹谷尊像には、厨子というか像を入れるお堂が二つあり、一つの像に不自然に二つの堂が付いており、一つは明らかに他の像が入っていた堂だと思われ、像が一つ行方不明になっているようにも思えます。

前記柏村氏の悩みや、現代の私が提起した疑問点は解明できないままですが、台座の年代の銘記は、史実を裏付けする貴重な資料であることには間違いありません。また年代が明記されている戸張や鰐口、その他、御神籤(おみくじ)筒、柄鏡、釣り灯篭など奥山神毘沙門天に関連する像・祭具は新町並びに奥地区の重要な文化財であることには間違いはありません。

新町毘沙門天世話人会も、お祭りの施行だけではなく、仏師による仏像の洗いやその他、柄鏡・釣り灯篭の修理等、文化財保護・保存の面にも力点をおかれてはと思います。

以前「なんでも鑑定団」に出品しないか、また「借り受けて展示させてほしい」などお話を頂きましたが、いずれも新町毘沙門天には世話人会という組織があるのでそちらに申出られるようにと伝えました。


(写真:西森秀喜氏/文責:山田治信)



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。


  • 銀山第一鎮守山神宮考「奥山神」について
      生野町広報 偕和  郷土史話 落穂拾い に連載
       230号(昭和44年6月30日)より238号(昭和45年5月30日)まで


誤字修正のお断り
「新町歴史散歩No.15 安国山唯念寺」の「こぼれ話」の文中に誤字がありましたので次の通り修正しました。
  擬国会 → 擬国会





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このページは、ワード文書としてA4用紙7ページにまとめられた「新町歴史散歩No.16」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)







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