奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2012/8/8】

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山田治信氏の新町歴史散歩 18

平成24(2012)年8月

社宅地区の発展と盛況


最初の官舎・社宅−桐の木稲荷下、久篤橋周辺か

新町の町並みが時代の変化とともにどう変化していったのか、詳しくは解りませんが、官舎(社宅)はかなり古い時期より混在していたようです。

役人と言うか中央から派遣されて来た技術者の官舎(社宅)が、桐の木稲荷下の一角にありました。この地帯は、桐の木稲荷裏山に多くの間歩(天受脈の採掘場)があり、掘った鉱石を砕いたり捨て石を捨てたりした、昔からの鉱業用地(下の古絵図にもあり)であったため、後年官舎用地に転用しやすかったものと思われます。

さて新町の官舎・社宅はいつ頃から出来たのいでしょうか。明治元(1868)年に生野鉱山が官営になり、明治4(1872)年頃より仏人技師たちの異人館が猪野々および現山神社付近に建設され、その後、長官官舎(元鉱山長社宅=現マテリアルクラブの西半分)やその周辺の官舎が完成したのが明治8年と言う事ですから、同じ頃かそれ以降と言う事になりますが、かなり古くからあったものと思います。

明治4年の古絵図の一部
明治4年の古絵図の一部(但州生野鉱山之図 広瀬満忠)  生野書院蔵 佐藤文夫氏提供
A:桐の木稲荷下の鉱業用地、B:小野大橋、D:新町橋、C:久篤橋=トロッコ橋(久林・緑珠ひ稼行地帯)、E:白口川

明治以降の鉱山史には、職員社宅は、甲社宅(旧鉱山長社宅、現マテリアルクラブ周辺)、乙社宅(山神社横=現サムコ工場付近)、桐の木稲荷下の3か所が主体で、猪野々、支庫(現町民会館手前付近)に各2戸があったと記されています。桐の木稲荷下は主に採鉱関係者の社宅で、一番大きな社宅は採鉱課長の住居でした。
〔茶畑社宅は、ずっとあとの昭和25(1950)年以降36(1961)年にかけて建設されたものです。〕

近年新町には、社宅を改造した独身社員のための寮や、上町の街筋にも民家を借上げた独身寮もあり、その後旧学校(現消防庫の所)跡地の広場にも社宅が建ちました。

古くは官舎から始まり、鉱山が私企業に移管された以降、職員社宅と呼ばれたこの地域は、新町区の行政範囲外になっていました。のちの茶畑、五区・山の上社宅も同一で、会社の庶務係が各区の区長と同等の役割を担っていました。それは転勤で人がよく入れ替わり地域の事情が解らないこと、会社として社宅地区を把握しておきたいことなどのためかと推察します。



働く人の住まいも部屋主から事業主へ
次々民家が買収され社宅建設

新町区内に一般従業員の住まいが出来始めたのは何時頃なのでしょうか。

明治以降の鉱山史に『鉱山の拡張で鉱員の雇用も次第に多くなり、中でも坑内作業に従事する坑夫、手子(てご=手伝い、見習い)の大半は、部屋主が雇い入れるため他国者が多く、独身者、単身者は、部屋主の飯場(はんば)に入居するが、家族同伴者や既婚者のための住居が必要となり、新町下筋、久篤橋(きゅうとくばし=トロッコ橋)付近に鉱員社宅として棟割長屋を建設した。』とありますので、これが最初だと思われます。この新町下筋久篤橋付近も、桐の木稲荷下と同様に、川向うの久林・緑珠(りょくじゅ)両ひを稼行するために必要な鉱業用地であり、また桐の木稲荷下と久篤地区は一体となった一大鉱業地帯、鉱業用地であったと思われます。この久篤地区に初めて社宅を建てたのはいつ頃のことなのか。書かれているのが官営時代の項に書かれていますので、鉱山幹部の住居が出来た「明治10(1877)年〜20(1887)年頃」以降と思われます。

地図

その後、猪野々地区を中心に進められてきた一般従業員社宅の建設は、次の段階をむかえます。『大正2(1913)年には従業員数が有史以来最多を数え、(明治末の従業員数2,000人、大正2年3,240人)この増員を収容するため、猪野々地区の上流および新町下筋の用地を買収して社宅を新築した。』(鉱山史)とあり、猪野々の土地も手狭になり、新町の民有地に目が向けられてきたことがうかがえます。この頃よりトロッコ橋付近から周辺地帯に社宅が広がり始めたと思われます。

自治消防隊の訓練風景
扇山社宅地区の自治消防隊の訓練風景

また飯場については、大正5(1916)年9月に一部 部屋主の廃業があったのを機に、鉱夫直轄制度を設け、これまで部屋主の下におかれていた坑夫の一部を直轄にし、庶務課の担当として直轄飯場を猪野々に開設しました。

鉱員の寄宿舎(寮)も建設されました。鉱員の合宿所は大正10(1921)年、猪野々に力泉寮の前身が出来たのが始まりですが、昭和14(1939)年新町久篤橋(きゅうとくばし)近くの10数棟の古い社宅を取壊し、100名収容の寮「銀谷寮=ぎんこくりょう」が現在の新町バス停付近に新築されました。また寮に収容しきれないので、現駐在所横の空き地付近にあった民家を改造して、銀谷寮の別館というものも造りました。
 (註)

  • 部屋主=働く人を各地より集めて飯場に寝泊まりさせ、山に必要な人員を送り込むことを業とする人。
  • 飯場(はんば)=部屋主が抱えている労働者に寝食を与える所。

同じ頃、社宅建設のため新町下町、現マンション「アベニール」駐車場周辺から現駐在所あたりのまでの民家の買収立退きの動きが始まりました。

昭和17(1942)年頃のある日、私たち(子供)が遊ぶためにそれぞれ友達を呼び集めに散りました。少したって年少の子が「べそ」をかいて帰って来て、「○○君の家が空家になっていて、人もいないし家具も無い」と云うのです。私たち子供は何が起こったのか解りませんでした。その後、周辺の家が次々と空家になって行き、大人たちの話していることを聞いてようやく事態が解りました。

広くて裏には大きな花畑があって、母がよく花を貰いに行っていた老夫婦の家も立退きになり、これまでの花での付合いが途切れてしまいました。

昭和18年には、社宅の一部を取壊すとともに新町・奥銀谷下筋の(現在の扇山駐車場あたりから上流向及び下流向けの地帯)民家の一部を買収、その跡地に社宅98戸が建設され、下流側の新町地内には、元の共同浴場(後年建設される前の浴場)が建設され、社宅以外の人も入浴出来るようになりました。



盛大な地蔵尊祭・盆踊り

戦後になり、昭和23(1948)年新町・奥銀谷地区に跨っていた社宅地区は扇山区となり新町区、奥銀谷区より分離独立しました。(閉山後再び新町区、奥銀谷区に編入)分離独立後は区長や町議も選出し、猪野々にならって地蔵堂を造営、盛大な地蔵尊祭や盆踊りも行われました。昭和25(1950)年より34(1959)年にかけて新町、奥銀谷に22戸新築、75戸改築があり、26年には、旧共同浴場の少し奥(現扇山駐車場付近)に、新しく浴場が新築されました。社宅で一番新しいのは、2戸続きの二階建で新町に3棟ほど出来ました。二階建というのは生野の社宅の歴史では初めてで最後でした。

二階建て社宅
社宅で最初の二階建て建物(扇山地区)

社宅地区には、会社の出先事務所があり、以前は労務係詰所と呼び、現在の下町駐在所の所にありました。坑内従事者の給料はその扇山詰所に採鉱課員が出向いて本人または家族に支払いを行っていました。後に世話所と名称が変わり場所も移転しました。

この様な経緯を辿ったのち、奥銀谷の一部を含め新町下筋の川側はほとんど社宅地帯となりました。

緑が丘も昭和31(1956)年竹原野より分離独立しました。


新町の街並み「1、乗合バスが走っていた上町」「2、社宅地区の発展と盛況」を描いてきましたが、扇山時代の地蔵尊祭、盆踊りなどその盛況を伝える写真・資料などを整えることが出来なかったことは、私の準備不足であり残念に思っております。



徳川時代の天領から明治の官領・天領へ、そして民間企業へと地域の支配者が変わり、山主を変え制度を変えて幾多の変遷を辿りました。そして繁栄と衰退を繰り返しついに閉山へと時代を移しました。その変遷の大きな波のたびに古きものが消え、新しいものが押し寄せて世が移りました。

戦国から立ち直り戦国大名の専制に。次に強力な徳川の代官制度のもと山主、山師、買吹、部屋主が栄え、街には吹屋、飯場、商店と商人があふれます。官営になって外人技術者が導入され、山主、山師、買吹、吹屋、部屋主、飯場が消えて行きました。

また鉱山が近代化を進める中で、山で日常必要とする物は、鉱山が自ら造り供給するということで、鋳物・製缶・鍛冶・仕上・建築・木工・塗装・水道(工作課という部門)、製材所、電気電話・架線工事・発電(電気課という部門)など広範な分野で製作・修理の自給自足体制を作り上げました。

このことは、大規模鉱山の需要に地元の小民間業者では応じきれないためですが、地元に民間業者が育たないという影響も与えました。しかし反面坑外にこれら補助部門があったため、坑内以外に大量の雇用の場があったことも事実です。この部門もさらに近代の合理化の中で徐々に削減されていきます。

鉱山が民営になると民家が買収されて消え、官舎・社宅が建ち並び閉山で最後はそれらが消えていきました。時代の変遷に従って何度となく大波に洗われ、再び建ち並ぶことを繰り返した新町の街並みでした。



✽本編は、次の資料・著作を参考または引用させて頂きした。
 この様な記録の資料となるお話や読みもの、印刷物、写真などがありましたら教えて下さい。
 また間違いがありましたらご指摘下さい。        (文責:山田治信)


  • 明治以降の生野鉱山史  藤原寅勝著  社宅関係記述より



(こぼれ話 銀谷寮=ぎんこくりょう)


銀谷寮、現在の新町バス停山側の場所にあり、猪野々の力泉寮とあわせ近代の二大従業員寮でした。戦時中は、都会の商店主や旅館の主人などが徴用(ちょうよう=註)され、家族から引き離されて鉱山に来ていました。世の中は物資もなく、商売も出来ない状態でしたが、坑内作業など想像すら出来ない旦那方、一国一城の主たちは、慣れぬ鉱山の肉体労働にほとほと弱り切って、こぼしており可哀そうなほどでした。戦後この人たちも再び都会に帰っていきました。

地図‐2

戦後しばらくして山に再び人が集まって来ました。寮にも人が入り若い人たちも集まって来て、寮独自の催しものを色々やっていました。素人演芸会やクリスマスパーティなど盛大に行われ、クリスマスパーティには若い女性にも誘いがかかって、その中から何組かゴールインした者もいたようです。

忘れられないのは、寮に若く元気で荒っぽく、腕が良いさく岩夫がいて、皆に恐れられていました。このさく岩夫は、生野に来るなり一人前でしたから、何処かの山か工事現場で経験があったのでしょう。ある時、私たちのグループが飲屋で一緒になり、「どんな風の吹き廻しか」この怖いさく岩夫と私たちグループの年長者たちが、仲良くなってしまいました。飲屋と云ってもその頃は、猫いらず入りと言われたどぶろく≠ゥ、鼻を突く臭い焼酎しかありませんでしたが。

暴れ者を手なずけて、やれやれと思って一週間程たった頃、彼が発破にかかって死んでしまったと言う事を聞きました。何と呆気ない付合いであり、人生であったことか。この元気で暴れ者のさく岩夫のお兄ちゃんは、銀谷寮で食事をしますが部屋は銀谷寮別館にありました。

( 文 山田治信 )


(註)

  • 徴用(ちょうよう)=(下記法により)国家権力により国民を強制的に動員し、一定の業務に従事させること。(広辞苑)
  • 国家総動員法=昭和13年(1938年)戦争遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できることを規定した法律。




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このページは、ワード文書としてA4用紙6ページにまとめられた「新町歴史散歩No.18」を、編著者山田治信氏の了解を得てWeb文書化したものです。可能な限り原文書の再現に努めましたが、HTMLでの記述上の制約によりレイアウト等に若干の相違があることを御諒解ください。(K.kitami)






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