奥銀谷地域自治協議会
地域素描
 【最終更新日:2014/12/25(公開日:2010/9/12)】

奥銀谷地域素描


国道312号から

奥銀谷地域は兵庫県朝来市生野町の東部域に位置し、姫路市の飾磨で瀬戸内海に注ぐ市川とその支流白口(しらくち)川の合流点付近と基点として、市川上流部の流域と白口川沿いの地域が含まれます。
市川は都道県知事の定める二級水系(河川)で、生野あたりの流域は、かつて黒川と呼ばれていました。



市川に並行する国道429号を行くと、生野ダムまでに新町、奥銀谷(おくがなや)、小野(この)の家並みが続き、緑ヶ丘、竹原野の集落があります。
国道429号は県営生野ダムの湖畔に沿ってはしり、生野ダム上流部の黒川地区を通って丹波市青垣町大名草(おなざ)に至ります。

県道367号と平行して流れる白口川流域には猪野々区そして白口区の集落があります。
県道367号は神崎郡神河町岩屋を基点とし朝来市生野町新町で終る、総延長わずか15.402kmの一般県道です。

案内板

兵庫県を南北に貫く国道312号を経て、生野町口銀谷(くちがなや)から国道429号をたどり、口銀谷の家並みを抜けると、県道367号との交差点です。この付近から奥銀谷地域です。




白口川流域

乙女の滝
乙女の滝

三十三体観音石仏
白口三十三体観音石仏

白綾の滝
白綾の滝

市川に架かる「つづら(葛籠)橋」を渡り、県道367号を白口川上流へと行くと猪野々(いのの)の集落があります。生野鉱山隆盛の頃には3百戸以上もの鉱山社宅が建ちならんでいたところですが、閉山後は町営住宅や分譲地となり現在に至っています。

ところで、江戸時代の「銀山廻」にも猪野々町がありました。現在の三菱マテリアル(株)生野事業所の地が旧猪野々町のあったところです。旧猪野々町は、生野銀山が明治政府直営鉱山になった明治の初めに鉱山用地として買収されて選鉱、製錬を行う鉱山工場が建設され、明治5年には口銀谷に吸収されて猪野々町は消滅しました。現在の猪野々は、かつて猪野々村といわれていた所で、奥猪野々の省略であろう(生野史)とされています。

県道367号を更に東へ約2km、白口川の渓流を右に見ながら行くと白口の集落です。集落の手前には落差10mほどの「乙女の滝」があり、道路から滝壺が見下ろせます。

白口地区も銀山廻に含まれ、白口町といわれていました。慶長5年(1600)に良質の銀鉱脈が山中各地で発見され、多くの間歩(まぶ、江戸時代までの手掘りの坑道)が切り開かれると、狭い谷間に千軒にも及ぼうとする人家が建ち、殷賑を極めました。山肌を開削して建てた家は二階三階建に見えるほどに密集していたといわれ、「白口千軒」と称されていました。

江戸時代末期には人力での採鉱が不可能なほどに坑道が深くなり、産銀量が激減して御所務山(代官所直営の坑道)が廃止され、鉱山全体が衰滅寸前になりました。加えて、明治の官営鉱山時代以後は太盛(たせい)坑と金香瀬(かながせ)坑が開発の中心となり、多くの人が白口を立ち退くようになりました。今に残る石垣を築いた宅地跡が、往時を偲ばせます。

地区の本谷庵跡には、三十三体の観音石仏が祀られています。この石仏は愛宕山(俚言)の山頂付近に祀られていましたが、風雨に因る傷みを案じる人達により、昭和60年頃に現在地に安置されました。江戸時代に山岳信仰の講中により造立されたものといわれています。

白口地区の入口から白口川を渡って谷間の道を行くと、落差30m余りの優美な滝「白綾の滝」があります。「朝来志」に『千匹(せんき)の白綾を開展したるが如く』と形容され、紅葉の頃の景観は格別です。



生野ダム以南の市川流域

下箒
下箒の亀石
(護岸のための小規模な横堤)

河川公園
新町河川公園

十六羅漢
十六羅漢

汰り場跡
汰り場跡

浄願寺楼門
浄願寺楼門

慶寿ひ
慶寿ひ 露天掘り跡

鉱山正門門柱
旧鉱山寮生野支庁 正門門柱

トロッコ道
トロッコ道

熊野神社
熊野神社

内山寺址
内山寺址
内山寺址

市川と白口川の合流点から生野ダムまでの市川沿いに、下流から江戸時代の「銀山廻」に含まれた新町、奥銀谷町、小野町の集落があり、明治22年(1889)4月の町村制施行による生野町発足以前の竹原野村の村域であった地区があります。

新町の南端、白口川が市川に合流する付近の市川右岸は、峻険な崖が急流に迫り、旧猪野々町と新町や奥銀谷を隔てていました。この下箒(したぼうき)の地には、宝暦年中(1751−1764)に桟道が造られるまで通路がなく、市川を渡って現在の猪野々の地を経由し新町に至る中世以来の道があるのみでした。安永2年(1773)に崖を削り川を埋めて、巾6尺(約1.8m)ほどの新道が築かれ、文政4年(1821)山師(銀山の採鉱請負業者)達が資金を出して大改修して坦直な道になりました。道路は洪水により度々崩壊し、天保4年(1833)にも修築され、明治22年(1889)8月の洪水による決壊を機に御料局の助成を得て更に改修されて漸く安全な道になりました。天保4年の修築の際の「築路供養塔」と明治の改修の際の「修道碑」が路肩に建てられています。

現在、下箒の対岸(市川左岸)には親水公園である「新町河川公園」が整備され、憩いの場となっています。この公園には、2010年に「コワニェ公園」と愛称が付けられました。コワニェとは鉱山技師の名で、生野鉱山の開発のため明治政府により招聘されて、この付近に建てられた洋館に居住していました。

新町、奥銀谷(おくがなや)は天正(1573−1592年)の頃より銀山の隆盛とともに人家が密集し、市川の谷筋を埋め尽くしていました。

江戸期、この地域の市川沿いには20数戸の「吹屋」が軒を並べ、銀を主に銅、鉛などを製錬していました。採鉱の中心地金香瀬山に近いこと、製煉滓の処理に好都合なことから吹屋街を形成したものです。また、市川川床の岩盤には、比重選鉱に用いられたと思われる汰り場(ゆりば)跡の窪みがのこっています。

かつて新町には銀山鎮守の奥山神が祀られ、その宮寺の奥神宮寺がありました。明治の神仏分離令(正しくは、神仏判然令)により、それまで奥山神の本体として祭祀されていた毘沙門天(財宝を守る神とされる)を奥神宮寺へ引き取らせ、奥山神には金山彦(金山毘古)神が勧請されました。その後、奥山神社は明治24年(1891)に現在の地、口銀谷愛宕(現、SUMCO生野工場跡隣接地)に社殿を新築して遷宮し、奥神宮寺は廃寺となりました。

奥神宮寺に遷された毘沙門天は、後に隣接する仙遊寺境内に移建遷座し、更に仙遊寺が廃寺となる(昭和39年/1964年)に及んで同じ新町の本来寺境内に遷されました。

仙遊寺跡は生野町第1保育所拡充新築の用地とされ、保育所はその後奥銀谷幼児センターとなりましたが、奥銀谷小学校の閉校と同時に廃止されました。この幼児センター跡は改修されて「かながせの郷」と命名され、平成22年(2010)5月から奥銀谷地域自治協議会の活動拠点となっています。

奥神宮寺には十六羅漢の石像が建立されていましたが、奥神宮寺の廃寺を機に大用寺(かながせの郷のお隣)に移されて、現在に至っています。

江戸時代には「奥銀屋」と表記された奥銀谷には、生野代官所の奥御米蔵があり、寺町という街区がありました。御米蔵は奥銀谷小学校開設に伴い校舎に転用され、後年小学校の拡張のため主要路であった寺町もその敷地の一部となり消滅しました。明治7年(1874)>開校の奥銀谷小学校は、学童数減少のため平成21年3月をもって閉校となりました。

小野町(このまち)は、史跡生野銀山として今も残る坑道、金香瀬(かながせ)坑の入口にあたる集落です。
金香瀬山は生野で本格的に銀の採鉱が行われ始めてから昭和48年(1973)3月に閉山するまで、採鉱の一大中心地帯でした。

江戸時代末期には衰滅寸前の状態にあった生野の鉱山は、明治政府による官営となりフランス人の土質家コワニェ氏を招聘し当時最新の技術をもって、銅を主体とする鉱山として再開発されました。明治22年(1889)には皇室財産に移管され御料局生野支庁となり、更に明治29年(1896)三菱合資会社に払い下げられました。現在史跡生野銀山の入口に立つ十六弁の菊花紋が浮き彫りにされた門柱は、工部省鉱山寮生野支庁の正門として建てられていたもので、閉山後現在地に移設されました。
閉山後の金香瀬坑はシルバー生野により観光坑道として運営されており、資料館、鉱物館も併設されています。

小野は奥銀谷や新町よりも早くから人家が建ち、小野町(昔、滑(なめら)と称した地域)、井瀬町(ゆうぜまち、夕瀬とも書いた。)、川原町(かわらまち)の地名がありました。江戸時代、銀山で一二を争う大山師大野氏の邸宅跡は明治初年より大野町と俗称されていました。

地区の北端に鎮座する熊野神社は奥銀谷、小野、竹原野、緑ヶ丘の氏神として祀られています。この熊野神社の境内には稲荷神社(倉稲魂神)と恵美須神社(事代主神)、そして室町時代の但馬国守護山名氏累代の鎮守として尊崇を受けていた弁財天の社もあります。

小野から竹原野に通じる道は急峻な崖下の道です。石淵と名づけられたこの地は、市川に落込む断崖を急流が洗い、下箒に劣らぬ交通の難所として竹原野と小野、奥銀谷の地を隔てていました。

竹原野は、現在竹原野地区と緑ヶ丘地区に分かれ、それぞれ行政区になっています。奥銀谷地域の中で、僅かではあるが平坦な圃場のある地区です。

竹原野区には安産の神として「子安地蔵」が祀られ信仰を集めています。また、特別養護老人ホームやケアハウス、グループホーム竹原野などが建設されています。

緑ヶ丘区は、昭和31年(1956)に竹原野の南部に一戸建ての鉱山社宅が建てられて街区ができました。昭和53年(1978)に当時の生野町が三菱金属緑ヶ丘社宅を買収し、一般に分譲されて住宅地となり現在に至っています。

かつて竹原野の内山(うちやま)に松瀧山内山寺(ないさんじ)があり、12坊がありました(昭和29年/1954年廃寺)。但馬巡礼三十三ヵ所の内に数えられていた内山寺から、北隣の岩屋谷鷲原観音までの古道には、弘法大師をはじめとして、西国八十八ヶ所の霊場をなぞった観音石仏が祀られています。
内山寺址へは今も比較的簡便に行くことができます。しかし、古道は長年の風雨に崩落した箇所も多くあり、石仏を参詣することは容易でなくなっています。古道の風化を嘆く地元有志達の発起により、現在、古道再整備の活動が始められようとしています。



生野ダム以北

銀山湖
銀山湖

法道谷
法道谷

魚ヶ滝
魚ヶ滝

直谷不動滝
直谷 不動滝

黒川ダム
黒川ダム

明治22年(1889)4月の町村制施行による生野町発足までは、黒川村および上生野(こうじくの)村の村域でした。

黒川には黒川本村、大外、高路、梅ヶ畑、長野、簾野の字があります。
地区の北部、黒川本村には国内最大規模の揚水発電所、関西電力奥多々良木発電所の上部ダムである黒川ダムがあります(堤高は98m)。標高が約520mの黒川本村は、「朝来志」に『郡中最高の所、壷中の別天地』と形容されています。

黒川の大明禅寺は貞治6年(正平22年/1367年)創建とされ、開山の月庵宗光は応永13年(1406)に後小松天皇から諡号「正続大祖禅師」を賜わっています。大明寺の門前には美人の湯といわれる黒川温泉があります。

市川の源流にあたるこの地区には、地元でアンコウと呼ぶ特別天然記念物オオサンショウウオが多数生息しています。旧黒川小学校校舎を利用して設立されたNPO法人日本ハンザキ研究所ではその生態が探られていて、環境保全活動施設「あんこうミュージアムセンター「も併設されています。

かつての上生野村は上生野、魚ヶ滝、菅町(すがまち)の字で構成されていました。上生野の集落は、昭和45年(1970)に建設が始った県営生野ダムのためダム湖(銀山)に没することになり、全戸移転し、銀山湖周辺の地名として現在も残るが人家はありません。現在の生野町円山地内の上生野は移転により形成された集落です。

銀山湖はブラックバスなどのルアーフィッシングの好適地として多くの釣人を楽しませ、湖畔の景観は「ひょうご風景百選」に選ばれています。

銀山湖から上流の市川流域は黒川渓谷と称され、兵庫県の朝来群山県立自然公園に含まれています。春にはちょっと変わった形の三椏(みつまた)の花が山肌に咲き、夏には蛍が乱舞し、秋には織りなす紅葉が山を染めて、四季折々の豊かな自然が満喫できます。

黒川渓谷にはその地名ともなった「魚ヶ滝」があります。落差は3mにも満たないが、滝つぼはかなり深い滝です。滝中の岩が恰も鯉の滝上りのように見えることからその名がつきました。滝の周辺には、生野町自然休養村センター魚ヶ滝荘があり、キャンプ場なども整備されています。

また、黒川区にはあまごなどの川魚料理や山菜料理、ぼたん鍋などを供する「やまびこ山荘」「こうチャン食堂」「せせらぎ荘」などの民宿や「黒川養魚場」があり、多くの食通に親しまれています。

黒川本村には黒川自然公園センターが設置されており、自然学習の拠点として利用できます。





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