奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2010/9/29】


トロッコ道


兵庫県朝来市生野町新町から小野区にかけての市川左岸に通称"ロトッコ道"と呼ばれる通路跡がある。道幅は1間半ほど、絶壁といえる岩肌の山裾の川岸に石垣を組んで造られている。
生野鉱山金香瀬(かながせ)坑の入口にあたる小野(この)の川原町稲荷付近から旧猪野々町の鉱山本部工場までの間に、明治4年(1871)と大正2年(1913)の2期に分けて着工、建設された鉱山専用輸送路跡である。
現在、小野側の取付き部は埋め立てられて輸送路跡としては残っていない。また、新町橋から下流部分も地形が変わり残されていないが、県道367号の終点となる市川を跨ぐつづら橋の少し下流に、市川を斜めに渡る専用橋の橋脚部分が残っている。
尚、このトロッコ道は私有地であり、崩落の危険もあるため立入を禁止されている。


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トロッコ道1
現在残るトロッコ道の最上流部(写真の左が上流側)。

トロッコ道2
木立に遮られて見えにくいが、立て札付近に坑口跡(久林ひ)がある。

トロッコ道3
久篤橋が架けられていた付近は岩盤が張り出して川幅が狭くなっている。

トロッコ道4
篤行ひの坑口が中央に見え(立て札がある所)、この直上にも開口部がある。
新町駐在所の裏手にあたる。

トロッコ道5
篤行ひの下手。新町橋まであとわずかである。
(写真はいずれも2010/04/28撮影)

(金香瀬山銅鉱開発に着手)
明治元年(1868)、官有になった生野鉱山は、当初銅鉱山として太盛(たせい)坑と金香瀬坑の開発計画が立てられた。しかし、鉱山技師ジャン・フランソア・コワニェの調査分析により、金の含有率が高い鉱脈であることが確認された太盛坑の開発が優先され、含銀銅鉱である金香瀬坑の開発は先送りとなっていた。
太盛坑の操業体制が整った明治4年(1871)、金香瀬銅鉱の開発が決定され、明治5年(1872)より着手されることになった。

(金香瀬、本部間輸送路の新設)
明治4年の末頃、金香瀬坑開発着手に先立ち、金香瀬坑−本部(製錬工場)間の鉱石及び物資輸送のための専用道が築かれた。この専用道は市川左岸の山裾に路床を築いて、相沢町(現小野区地内)西端の川原町稲荷社付近より現在の新町バス停付近の対岸まで造られ、さらに、専用道南端から市川右岸に渡るための橋が新たに架けられた。久篤橋と名づけられた橋の西詰から本部工場までは、所謂新町下筋の一般道が利用された。

トロッコ橋とも呼ばれた久篤橋は、市川左岸にある二つの鉱脈、上流側の鉱脈久林ひと下流側の篤行ひ(緑珠ひの旧称)の間に位置し、久林ひと篤行ひの稼行のための通路としても利用された。

専用道が市川左岸に造られたのは輸送距離の短縮を図るためでもあり、また、稲荷社の南接地に古くからあった凝灰岩の石切り場の石材を築路に利用する便も考えた結果であるとされている。当時描かれた絵図によると、小野の大橋は現在の場所より上流(北)、浄願寺付近に架けられていたようである。

この石切り場で切り出された石材は家屋の基礎や墓石などに多く利用されており、官営鉱山時代も工場建築物の礎石や窓枠などに大量に使われた。正門の門柱、金香瀬坑口の石組、下箒の修道碑などもにも使われている(明治以降の生野鉱山史)
(✽久林ひと篤行ひの「ひ」は「樋」の木偏を金偏にした文字。)



(鉱山専用馬車軌道敷設)
明治24年(1891)12月、新町二丁目より口銀谷一丁目に至る市川右岸の町道上に鉱山専用馬車軌道が敷設された。これは、明治24年2月に御料局より裁可された支庁長朝倉盛明の改善計画案によるものである。朝倉の改善計画は、大島道太郎の「生野鉱山鉱業改良意見書」に基づいて立案されたもので、大島の「意見書」には金香瀬から鉱山工場までの馬車鉄道の建設も含まれていた。

鉱山技師大島道太郎は、明治22年(1889)2月、御料局の懇請に応じて生野支庁勤務となって着任し、明治23年(1890)8月に「生野鉱山鉱業改良意見書」を支庁長朝倉盛明へ提出している。朝倉は大島の意見書を全面的に受け入れていた。

ちなみに、神子畑(みこばた/旧朝来郡朝来町)生野間の馬車道にレールが敷設されて軽便軌道となり、田和坂の急坂を避けトンネルが開削されたのもこの頃(明治24年〜25年)のことである。
また、明治24年以降町内の道路上に敷設されたトロッコ軌道に対し、町は道路使用料を取らず、30年間の借地を承認している。

(鉱石運搬路延長工事)
大正2年(1913)7月、市川左岸の専用輸送路が市川と白口川の合流点、猪野々のつづら橋まで延長された。この延長工事は久篤橋から猪野々までの市川左岸に新道を築き、白口川と市川に専用橋を架設するもので、大正2年6月21日に金香瀬坑内の光栄竪坑で発生した火災による休業期間中に、鉱夫を動員して行われた。坑内作業が中止され、休業を余儀なくされた坑夫の救済事業であったともいわれているが、金香瀬坑は7月31日に漸く常態に復している。

専用道が延長されたことにより、久篤橋から新町下筋を経て下箒までの町道に敷設されていた軌道は撤去され、久篤橋も運搬路としての役目を終わった。その後、久篤橋は利用されることも稀になり、老朽も甚だしくなった昭和の初めに撤去された。

奥銀谷-新町俯瞰
市川左岸の八長山よりの俯瞰。この写真が撮影された時期は定かでないが、写真に写っている奥銀谷小学校の
校舎は昭和10年6月に完成しており、その後に撮影されたものであろう。新町方面は雪に煙っている。
写真左上に久篤橋とその下流側のトロッコ道が見える。

(金香瀬−本部間軌道の電化)
大正8年(1919)10月、従来人力によって行われていた金香瀬選鉱場−本部間の鉱石輸送が、出鉱量漸増に伴い電車輸送に切替えられた。
軌道間隔50cm、延長1820mの単線軌道が敷かれ、積載量約800kgの木製鉱車を最大15台牽引する米国ウエスチングハウス社製の電気機関車2台が導入された。

電気機関車-輸送路用 電気機関車-坑内用
(左)大正9年(1920)撮影の電気機関車。写真は鉱山本部−国鉄播但線生野駅の支庫間を走るもので、金香瀬−本部間に
導入された機関車と同型であるかどうか確証はないが、参考に掲載する。
(右)大正2年(1913)当時の金香瀬坑の坑内用電気機関車。坑内用電気機関車は早くから導入されており、蓄電池式の機関
車も使われていた。

市川左岸の鉱山専用軌道は、昭和25年(1950)まで鉱石や資材の輸送に使われていたとされている。


(文責 K.kitami)



参考文献:明治以降の生野鉱山史






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