奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2011/7/24 (初出:2010/3/1)】


雲頂山大明禅寺


大明寺祖堂
大明寺 祖堂(開山堂)

現在臨済宗妙心寺派の大明寺(兵庫県朝来市生野町黒川)は臨済宗大應派の僧月庵宗光(げったん そうこう)の草創になり、山号を雲頂山という。創建は貞治6年(正平22年/1367年)とされている。

月庵は貞治6年秋、但州(但馬国、兵庫県北部)黒川に入り草庵を結んだ。そして、大明寺を開創する。月庵行実に『未半戴、毳(ゼイ)従雲臻(シン)、師拒之不可、僅造一紀、緇(シ)白相率誅茅挿草、遂成梵宇、山号雲頂、寺曰大明』と記され、校補生野史に採録の「藤垣手記 但播州寺社旧記」には『雲頂山黒川村大明寺應安元申年(正平23年/1368年)建立云々』とある。貞治6年創建とするのは、月庵が草庵を結んだ年をもって創建とされているものと思われる。


月庵宗光禅師
月庵宗光禅師

月庵は嘉暦元年(1326年)4月8日に生れた。姓は大江氏、美濃の人である。南浦紹明(なんぽ しょうみょう、円通大應国師)--峰翁祖一(ほうおう そいち)--大蟲宗岑(だいちゅう そうしん)に続き大應派の法系に連なり、康応元年(元中6年/1389年)3月22日夜中に大明寺で遷化した。享年64歳、臘(臈、僧侶の出家後の年数)50。諡正続大祖禅師は、山名常熈(山名時熈、やまなと きひろ)の請願により、応永13年(1406年)に後小松天皇から賜わった。

時熈公木像
時熈公木像

大明寺草創の年貞治6年に生れ、晩年の月庵に私淑した山名時熈は、後年但馬国守護となり室町幕府の要職に登りつめた。時熈は月庵尊崇の念止み難く、月庵の墓所のある大明寺に葬られることを望んだという。時熈公木像の真下がそこであると伝えられている。

大明寺には丹波国氷上(ひかみ)郡佐治(さじ)(丹波市青垣町佐治周辺)を本拠とする、岩本足立氏の第5代岩本城主であった俊巌宗次入道(足立次郎左衛門尉基高)の牌もある。墓碑は元禄3年(1690年)以降に彼の末孫が建てたものである。

大明寺は二世大有理有(だいう りう、大観禅師)、三世笑堂常キン[言偏に斤](しょうどう じょうきん、円応大機禅師)ののち月菴の衣鉢を継ぐものもなく衰退し、堂坊も傾廃する。加えて天文年中(1532〜1554年)に祖堂のみを残して焼失する。

大愚宗築禅師
中興の祖大愚禅師
大安寺蔵 頂相部分
その後、江戸時代初期、寛永年間(1624〜1644年)に臨済宗妙心寺派の僧大愚宗築(たいぐ そうちく)により再興された。慶安2年(1649年)に大愚が第3代将軍家光より賜わった十五石の寺領は、幕末まで続いた。


月庵と狼
月庵と狼の逸話に因む像
黒川自然公園センター

大明寺の境内に球形の石がある。元は寺の北西字丸石の、溪水が石を繞(めぐ)って流れる地に在った。月庵は黒川に入るや日夜この石上に趺坐し、道を究めんとした。よって坐禅石という。後年、黒川ダムへの水没を免れるため大明寺に運ばれた。

土地に伝承がある。月庵が黒川に入りこの石上で座禅するようになった頃、黒川周辺の村々ではしばしば狼の被害にあい困っていた。ある日、座禅する月庵の傍(そば)に老いた狼が寄って来て、口中の棘(とげ)となった魚の骨を抜いてくれという。月庵はこれを抜いてやり、喜ぶ老狼にこのまわり三里(約12km)以内に這入って悪さをせぬよう諭した。以来、狼の害がなくなったという。

(文責 K.kitami)



参考文献
  朝来志/校補生野史/但馬史/山名常熈と禅刹



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