奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2010/5/11】


銀山廻


享和3年(1803)の調査によれば、当時の但馬の国、朝来郡には3町87村があった。
これらの町(まち)と村は、それぞれ廣谷(ひろたに)、餘部(あまるべ)、伊由(いう)、久世田(くせだ)、加都(かつ)、安井、大月、與布土(よふど)、物部(もののべ)、磯部、東河(とが)の11庄と枚田(ひらた)郷に属し、廣谷庄は更に銀山廻(ぎんざんまわり)、丸山組、八代(やしろ)組、山口組に四分されていた。

銀山廻は文字通り生野銀山を取り巻く地域で、口銀谷町(くちがなやまち)、猪野々町(いののまち)、白口町(しらくちまち)、新町、奥銀谷町(おくがなやまち)、小野町(このまち)、相沢町(あいざわまち)があった。


生野古図‐明治

江戸時代、村には村役人として庄屋(関西以外では名主)、年寄(同、組頭)、百姓代の三役が置かれ、一村の治安維持、勧業及び富の保全、徴税、救恤(きゅうじゅつ)、治水、土木等の執行に当たっていた。また、幕府領の土地には町奉行もしくは代官の支配下で町方に関する民政を行う公吏として町役人がいたが、名称は所によって異なっていた。

銀山廻の町役人の呼称は、口銀屋町と猪野々町では年寄といい、白口町は年行事といった。そして、新町、奥銀屋町、小野町、相沢町では「加奉(かぶ)」が町役を務めた。

「加奉」は但馬の幕府領、別けても鉱山町独特の呼称である。その由来は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣にある。当時の生野奉行間宮新左衛門は総堀の水抜きを企図して家康の下に参陣した。そのとき地親(じおや)が間宮奉行に率いられ、石切下財(げざい、坑夫)を従えて外濠の切り崩しを行った。これ等地親の功を賞し、元来地親が奉行の下で町方支配、銀掘りの指図をしていたことから、呼称を加奉行と改めさせたのである。加奉行は孫の代まで名字帯刀を許される栄誉に浴したが、後に奉行を憚って加奉と称するようになった。加奉は生野以外にも存在し、いずれも鉱山町である中瀬(現養父市関宮町)、明延(現養父市大屋町)に記録されている。



銀山廻の町々は「銀山廻七ケ町」と総称されていたが、明治4年(1871)10月19日付生野縣庁の通達にも「七ケ町」と記されおり、維新後もその括りは活きていたようである。一方、加奉の呼称は維新とともに消滅したようで、明治3年(1870)に生野縣庁へ差出された奥山神の神仏混淆引分に関する文書「奥銀谷町御用留」には、町役として町年寄、中年寄、惣年寄の肩書が記されている。

銀山廻七ケ町の内、猪野々町と相沢町は現存しない。
猪野々町は官営生野鉱山の開発拠点として全戸全域が買収され、明治5年(1872)に口銀谷町に合併されて消滅した。現在三菱マテリアル(株)生野事業所のある所がその街区であった。
相沢町は、明治23年(1890)の大洪水により大半の住居が流失する災禍に見舞われ、明治24年(1891)から明治25年(1892)頃に金香瀬(かながせ)中央選鉱場建設用地と選鉱廃石の堆積場として御料局に買収されて居住するものが居なくなった。後に小野町に併合され地名も公簿上から抹消された。明治29年(1896)に政府が生野鉱山の民間への払下を決定した。そのときの下賜金の配分先に相沢町の名があり、抹消されたのはそれ以後のことである。生野鉱山は明治29年9月16日に行われた入札で、大阪精錬所とともに三菱合資会社が落札し、同年11月1日に引渡された。

(文責 K.kitami)



参考文献
  朝来志/校補生野史/明治以降の生野鉱山史






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