かつて「佐渡の金、生野の銀」と並び称せられた生野銀山。
生野で銀が発見されたのは大同2年(807)と伝えられます。
中世になると、ときの将軍たちが次々と銀山を統治し、江戸時代には幕府の天領となりました。
明治元年(1868)、我が国初の官営鉱山となり、政府はフランス人鉱山技師を招聘するなど近代化を進め、町内には外国人たちが暮らす洋館のほかに、日本人用の官舎も造られました。
明治29年には当時所管であった宮内省から三菱合資会社に払い下げられ、以来三菱の鉱山として栄えてきました。

「旧生野鉱山職員宿舎」には4棟の建屋、甲7.8.9.19号棟があります。
甲7号、8号、9号の3棟は官営鉱山であった頃の明治9年に官舎として、19号棟は明治29年に三菱の社宅として建てられた、生野に現存する職員住宅のなかでも最も古く日本近代の生活様式を残す貴重な遺構です。

「甲社宅」の”甲”は甲乙の”甲”、生野には甲乙社宅の他にも、茶畑、寺の上、緑が丘、扇山、猪野々、新町などに数多くの社宅が建設されました。今では取り壊されてしまいましたが、当時の写真をご覧ください。

◆乙社宅と鉱山病院、協和会館 ◆猪野々社宅

◆寺の上社宅 ◆扇山社宅 ◆緑が丘社宅



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