奥銀谷地域自治協議会
かながせ文庫
 【最終更新日:2011/4/30】


奥銀谷、戦中・戦後の記憶「あの頃も笑顔があった」(佐藤文夫氏談)

おくまが 第2号(2011年3月1日 奥銀谷地域自治協議会発行)より転載


あの頃も笑顔があった

奥銀谷小学校

僕は昭和十六年度の奥銀谷小学校の卒業。奥銀谷小学校はとにかく剣道が強かったんや。僕らの頃、県大会で三年連続優勝や。生野小学校も強かったけど奥銀谷小学校のほうが強かった。当時は三学期が始まったら寒稽古があって、放課後また剣道・・・。先生も一生懸命やったなぁ。
朝は全校生徒が毎日駆け足で、新町から小野まで一周するんや。「わっしょい! わっしょい!」って掛け声かけながら・・・。そないしよったら町の人も家から出てきて、手をたたいてくれたり声援を送ってくれよった。

剣道の練習
剣道の練習風景(昭和16年)

戦  争

小学校の頃はちょうど支那事変(昭和12年/1937年)が勃発したときで、生活がもう戦時一色やったなあ。兵隊に出征する人を見送ったり、また英霊になって帰ってくる人を迎えたり、というのが子供の頃やったわ。この頃になるとだんだんモノが無くなっていく、ズック(履物)も配給やったが、子供の数の四分の一くらいの数しか来いへんかった。

中学生になると学徒動員や。鉱山本部(今の三菱マテリアル生野事業所)の中に神戸の三菱重工が疎開してきて、その中でロケットの部品作りや。鉄道で運ばれて旧駅に着いた重たい工作機械を、鉄車にのせて鉱山まで引っ張っていくのも生徒の仕事やった。あまりの重さにアスファルトに鉄車の跡がついて、いつまでも残ってたのを思い出すなぁ。

当時は中学校が生野小学校の北校舎にあってな、そこから隊列つくって工場まで行進して行くんや。守衛さんのところには、当時の鬼塚工場長がかならず立っとってなぁ、中隊長やった僕が「歩調とれ! かしら〜 左!」って号令掛けよった。もう工場の中も軍隊みたいやったわ。


捕虜との思い出

その学徒動員の作業も、当時生野の収容所におった捕虜と一緒にやっとった。捕虜はイギリス、オーストラリアが多かったかなぁ。

捕虜の人はたいがい坑内作業やったが、将校とか一部の人は工場の中でわしらと同じ場所で働いとった。そんなとき、同級生やった竹村健一君なんかは、しきりに英語で捕虜達に話しかけよった。やっぱり当時から賢かったわ(笑)。坑内で作業する捕虜は、毎朝収容所から隊列作って金香瀬まで行進して行きよったんや。捕虜の中に顔見知りのトーマスっていうのがおって、よく「おはよう!」「グッドモーニング!」って挨拶しよったもんや。


終  戦

終戦のときは中学3年生(旧制)やった。8月15日の玉音放送は協和会館で聴いたなあ。最初はよう聞こえんで、「もっとがんばれ」って言われてるのかと思った(笑)。

戦争が終わってこれまでの勤労奉仕作業は無くなったわけやけども、楽になったと思うたらそうやない。今度は山行きや。白口の庵寺に泊り込みで、山に入って炭を焼いて、運び出しよった。都会のほうでは燃料不足で、当時は山村部の学校に政府から炭供給の要請があって、生産目標まであった。都会人の生活を支えとったんは僕らやったんやで(笑)。庵寺では、食い物が無いから川でごとんぼ(アブラハヤ)釣って焼いて食べよったなぁ。


紳士的だった生野

終戦で捕虜とは立場が逆転するわけやけれども、それでも暴動が起きたりせんかったのは、三菱が戦時中も比較的紳士的に捕虜を扱ったからとちゃうかな。落下傘で落ちてきた米軍の補給物資も、野菜や卵と交換したり交流があったんやで。大人はコーヒーをご馳走されたり、子供はお菓子をもらったりした・・・トーマスはくれへんかったけどな(笑)。

最近、ちょくちょく当時の元捕虜が生野を訪れる機会が増えて、縁あって案内役をさせてもろてるけど、その時に彼らから聞く生野の感想は、とにかく懐かしいという思いが強いみたいや。確かに坑内での作業は大変やったけども、同じ坑内に入っている日本人は優しかったってみんな言うなぁ。

当時、鉄索(てっさく:ガラを運ぶロープウェー)で働いてた捕虜は、自分のところに帰ってきた空っぽのはずのバケツ(荷台)に、日本人作業員が山から採ってきてくれた山百合がどっさり入っていて、それを収容所に持って帰って仲間全員の部屋に飾ったことを懐かしく話してくれた。

また坑内作業をしてた捕虜からは、捕虜の弁当が腐っているのを見て、だまって自分の弁当を半分くれた坑員の話を聞いた。全部で450人くらいの捕虜がおったけども、全国に84ヶ所収容所があって、一人も死人を出さへんかったのは生野くらいらしい。重労働や虐待で死んだりするものはおらへんかった。

帰国のとき、世話になった元兵士を探し出して礼を言いに来た捕虜がいたとか、当時の三菱の役員さんや町幹部と将校クラスの捕虜がすき焼きでお別れ会をしたという話もあるくらいやからなあ。さすが三菱、そして生野の人はえらかったと思うなぁ。


戦後の奥銀谷

昭和30年代は鉱山が元気なときやった。奥銀谷区は、店がたくさんあってにぎやかやった。今と違って商売人の町というイメージやな。鉱山の支払日が毎月11日で、その日の夜は、まちの飲み屋がにぎやかやったなあ(笑)。

近所づきあいも今よりずっと親密で、正月や節分など、節句には隣保の家族が集まって宴会をしたもんや。子供会も子供がぎょうさんおって活発やったしなぁ・・・ クラブ(昔の公民館)で素人演芸会もやったなぁ・・・。とにかくみんな仲良く、明るかった。

銀滴

文化活動も盛んやった。当時は生野の各区に青年団があって、僕も奥銀谷青年団の一員やったけど、青年団に「文藝部」があったんやでぇ(笑)。当時の奥銀谷には熱心な人が大勢おって、毎月「銀滴」という文集を発行しとった。小学校でガリ版(謄写版)借りて、みんなで作りよったんや。当時の文集は、今でも大切に保存しとる。



あの頃も笑顔があった

小学校4年生と5年生やったかなあ、勤労奉仕で竹原野の荒地を、みんなで開墾した。その当時の写真は今でも大事に持っとるけど・・・。みんな笑うとんや(笑)。ほんまにええ顔でなぁ。腹が減って食うものも無い、みんなひもじい思いをしてるはずなんやけど・・・。

今から思うと、みんな貧しゅうて、みんな辛かったから、みんな一緒に笑えたんかなぁ。昔のほうが人も多く、また戦時中のように貧しく困難もあったけど、今よりもずっと人のかかわりは深こうて、温かかった気がするなぁ。小学校は地域全体で支えてたし、近所づきあいも家族ぐるみやったし、捕虜とも言葉は通じんでも気持ちの交流があった。そやから今でも元捕虜の人らは生野の地にやってくるんやと思うなぁ。

奥銀谷区も過疎化が進んで人口も少くのうなってしまったけど、あの頃の人と人とのつながりが戻って、また元気な笑顔の奥銀谷になったらええなぁと思うなぁ(笑)。

竹原野開墾
勤労奉仕で竹原野の荒地を開墾(昭和16年)


map

おことわり
この記事は、奥銀谷地域自治協議会のミニコミ誌"おくまが"第2号(2011年3月1日発行)に掲載されたインタビュー記事「あの頃も笑顔があった」を転載したものですが、写真等に"おくまが"の記事と若干の相違があります。(K.kitami)







Copyright(C) 2009 奥銀谷地域自治協議会 All Rights Reserved. 禁無断転載 Design by K-TECH Co.,Ltd.